浮かせた目玉に生温い記録を残しながら、『表の』世界を歩く。
もう幾年ぶりになるだろうか。己の境遇を思えば故郷への帰還だが、甘く懐かしむような思い出はない。未練などは抱かなかったのだ。
否、この世界を離れた瞬間にはまだ存在していたのかも知れないが、今はもう覚えていない。
二十年も経たぬ世界は大してその姿を変えてはいなかったが、クリムゾンにとって既にこの地上は帰るべき場所ではなかった。もし今後そんな風に考えるとしたら、それはハイドレードによっての支配が成された時だ。
映像として残されていくであろう風景に目を細める。
裏帝国に比べどうしても眩しく感じるのであった。照明のものとは違う光が、身体の周りをひたすらに流れていく。
こんな些細なことをわざわざ意識している暇はないのに。
クリムゾンが先行して地上まで上がってきたのは、新帝王決定戦とやらを行っている最中のこの場所から生け贄候補を見繕うためだ。
裏帝国の頂点に立つ三人を地上へと解放するにはエネルギーが必要となる。事実上地上の覇者を決めるというこの大会ならば腕に覚えのある者が集うだろうというのもあったが、何より裏帝王ハイドレードがこの『新帝王決定戦』にこだわっていた。
懐かしむもののない場所を歩き、大したことのない連中をひたすらに記録するのは退屈だった。
仕留めるのは準備が整った後、それなりに人数の絞られた本戦会場に乗り込む手筈になっている。
クリムゾンは候補を定め、生け贄の捕獲を円滑に進めるために。
そしてハロンオニは地上の連中の実力の程度を確かめるために。
どちらにしろ、大して面白いとは思わなかっただろう。
殆どの連中はクリムゾンの『眼』に記録されていることすら気付かない。たった一人だけ感付いた真拳使いがいたが、そうまで手応えのある相手ではなかった。
ただ何故か奥義を使ってこなかったのが気にかかる。念のために絶眼拳で仕留め、それでも生け贄候補として一応は生かしておいた。地上を支配して何をしたいのかといえば、それはまずハイドレードやベーベベや白狂のためである。
クリムゾン自身が然したる理由を抱いたものではない。
ただマルハーゲ帝国のことは気に入らないに違いなく、だからこそハイドレードが地上をも統べるのならば何よりいいと感じていた。
こうしてバッジの取り合いとやらをしている連中を記録するのも、そのためと思えば苦ではない。
レベルの低いと言わざるを得ないのには違いなかったが。
蔓に吊らせたまま放置した先程の男を少しだけ思い出し、一瞬立ち止まったクリムゾンは、
しかし振り向かずに目前を睨んだ。
気配を感じる。
何者かが、こちらを見ている。
「出てこい」
記録用の目玉を上にあげて呟くと、逃げ出すかと思われたその何者かの影はゆっくりと動いた。
短い草が踏まれて音を起てる。
百あるという闘技場の中、現在クリムゾンが立つのは全体が森となったステージであった。木々のために視界は決して良くはない。
それでもこの自分が何か見逃すはずはないと、そう気を張る必要すらなかった。
影はあまりに堂々とクリムゾンの前へ立ち現れた。「逃げ隠れなどするものか。そう睨むな、若造よ」
影は不敵に笑んで向かい合ってくる。
派手な服の上に柔道着を着たらしい、食物タイプの男だった。
「何だ、貴様」
「そうだな、多少不躾な挨拶をしたからにはわしから名乗ろう。我が名はハンペン」
「ほう?そのハンペンが何の用だ」
言えば、ハンペンとやらは笑みを深くする。
「問う前にお主も名乗るべきだな」
「…ふん」
クリムゾンも笑むと、目玉にはこの場の記録を続けさせ一歩前へと出た。
「クリムゾン」
「紅か。道理で血の匂いのする…」
言われてクリムゾンは初めて、絶眼拳を使用した際に指先に残った乾きかけの血液を見付けた。
「鼻のいいことだな」
「嗅覚はそれなりに敏感なつもりでな。特に強者の匂いには」
「強者ね」
古風な物言いは可笑しく、しかしハンペンとやらにはしっくりとくる。
「うむ。強者結構」
クリムゾンの笑みを気にせずハンペンは構えた。「わしと戦え、クリムゾン」
名を呼んだのは礼儀のつもりか。
組んでいた両手をゆっくりと降ろし、三の眼で相手を見据える。
「好戦的な食物だな」
「食物とて争い競わぬのではない。お主もまた、何かやらかそうとしておるだろう」
「……」
真っ先に思い付いたのはつい先程の戦いであった。
「見ていたのか?」
だとしたら己はこの地上の連中を笑えなくなるのだが、
ハンペンは本当に鼻で笑う。
「さあな。わしの知るのは予感のみよ」
それは偽りではないようだった。
ただクリムゾンはそう問うことで、事実上『肯定』してしまったことになる。「…ツルリーナ四世の僕め。律儀なことだ」
「生憎わしは四世の僕でもない」
「ならば何故この大会に参加している?」
「わしを四世の僕と言うなら、それはお主にも言えることではないのか?」
「……」
もっともだ。
回り込まれたのだと、内心で苛立つ。
「…俺はツルリーナ四世を好かんのでな。ならば貴様は何の僕だ」
そうハンペンに問えば、返ってくるのは明確な答ではない。
「食王は何の僕にもならんよ」
妙な説得力を孕んだ台詞であった。
食王などという言葉には聞き覚えはなく、縁も無かったが、確かにハンペンという男には一見隙がない。
生け贄候補になる程度の『強者』ではあるのだろう。
「ならば何処かの国からでも沸いて出たか」
「僕になったつもりはないが、敬うものならある。だが戦うのはそのためでもない」
「…それで誰も構わんと?」
「わしは強者が好きだ。それで充分」
自信に満ちた言葉の奥に、ハンペンはお前と戦いたいと繰り返している。
クリムゾンはそこに本物の意思を見た。
ただ彼は先程の、目玉に気付いて飛びかかってきた男とは異なり、こちらの出方を待っている。
「身内の連中も大会とやらに出場しているのでな。浮ついた雰囲気は好かんが、舐めたものでもなさそうだ」
彼の言葉は何もかも心底楽しそうに響いた。
その響きに、違和感を覚える。
クリムゾンにとって戦いの興奮とはこういったものではない。
ハンペンはまるで腕を広げて待っているようで、その態度を理解するには至れなかった。
妥協は死へ繋がる。妥協でなく自信というなら結構だが、それを示すのにさあかかってこいなどとは無駄もいいところだ。
その『ただ楽しくて堪らないのだ』という表情が、クリムゾンの知る常識からは外れていた。
「…何がしたい」
意識せずとも不機嫌そうな声で問えば、ハンペンはそれこそおかしいと言うかのように首を傾げる。
「お主と戦いたいと言うておるだろう?」
「理由も問わずに」
「必要あるまい」
「何ひとつ探らず」
「わしは純粋に拳を交えたいだけだ」
「…バカな」
呟いて腕を組み直すと、ひとまず戦闘の意思なしと見たのかハンペンも構えを解いた。
「それをバカと言うなら、お主にはそれこそ理由があると」
「答えてやる必要はないな」
「お主としてか?それとも誰かの僕として」
一見淡々と問うてくるハンペンに、クリムゾンは無言で返した。
その態度のどこまでが真実かは知れない。また、クリムゾンの動作があちらにどう見えているかも解らない。
「…僕として、と言ったら」
「お主は僕を笑えんが」
「誰かに従うのを馬鹿にしたつもりはないな。ツルリーナ四世を好かんだけだ」
「ふむ。何やら恨まれているのだな、現皇帝は」
現皇帝。
その言い方に多少引っ掛かるものはあったが、追求はしなかった。
「…少なくともたった今は、四世の世界だ。奴にとって俺は淘汰されるべき存在だった」
「なるほど」
意外にもあっさりと頷くのに、クリムゾンは驚かされる。
それを読んだか読まぬかハンペンは続けた。
「わしは押さえつける側をやったことがある。逆だな」
特に得意げということもなく、静穏ですらある呟き。「…四世ではない誰かのところで?」
思わず言ってから、しまったと思った。
彼との『会話』などに意味はない。
時間の無駄のはずだ。しかしそれを解っているなら、押しのけて通ることもそれこそ望み通り拳を交えてやることもできる。
なのに何故だろうか、交わされるのは探るような言葉と言葉。
「そうだ。お主にとってはもう、随分昔のことになろう」
「お前には違うと」
「わしにとっては昨日今日の様なものよ」
「……」
この男の言うことは、繰り返し謎を孕む。
それが何を意味するのかは知れない。
知れないだけ、しかしそれだけではなく、謎を含んだ言葉の渦に未だ違和感を感じている。
クリムゾンが地上で最後に浴びた言葉は宣告だった。
その前には逆に思い出すほどのものもなく、後には刺激に満ち溢れていた。
ハンペンの向けてくる言葉はそのどちらとも違う。
穏やかなくせに重く、クリムゾンを甘やかすのでもなく、しかし憎むのでもなく、時計の針の回るように響くのだ。
時計。
そう、時計だ。
俺はこんなことをしている場合ではない。
生け贄を集めねばならない。
「…そこを退け」
「なぜだ」
「急いでいる」
「わしとは戦えないというのか」
「…戦いたいのなら、貴様から来ればいい!」
「…いや。ならばできんな」
「なんだとッ」
「戦う気のない者を相手にしたところで、わしの腹は満ちん」
「……!!」腕を振って、クリムゾンは真拳を放とうとした。
目玉を浮かすか。また急所を一突きにしてやるか。
何も思い浮かばなかった。
何もできぬのではなく、何をしようとも『浮かばない』。「もしお主がこの先に進んでわしの身内を傷付けようとでもいうなら、わしはお主を放ってはおけん。だが今のお主は技を撃つすら望むまい」
「…貴様から始めれば何もかも進むことだ…!」
「お主自身の身を守るために」
「…それがッ」
「それはもう純粋な戦いとは呼べん。わしは望まん、すまなかったな」言い切ってからハンペンは、ゆっくりと体を横に向ける。
「通るがよい。止めん」
「何を…」
「正義の味方でもあればお主を放ってはおくまい。だが既に血に汚れたこの身では、何も見てすらいないのに理由は持てん」
この男は本当に感じたのみだったのだ。
『強者の匂い』を。
「お主がどんなに世界を恨めど、それはわしではない。わしも潜むお主ではなく向かい合ったお主と戦いたい」
たったそれだけをクリムゾンに感じて、たったそれだけでクリムゾンの前に現れ、そして真っ向からぶつからせろと言う。
敬うもののために来て、
この地上を潰さんとしている男を、
そんな理由のために、ひたすらに。
ただの俺だけを見ている。
「通らぬのか?」
クリムゾンは歯を食いしばり、ハンペンを睨んだ。
返される真っ直ぐな視線も気に入らない。
クリムゾンにとって視線とは、ただ受けるものではない。ただ与えるものではない。
そして地上の全ては憎くつまらない存在のはずであったのだ。
記録に残せど記憶には残らない、そんな存在でしかないはずが。「強者よ」
「…まだ何か言うかッ」
「また出会った時こそ戦おうぞ。貴様はきっと強い」
「くだらんことを」
「わしにとって戦いはそのまま生き様よ。そのために望みを表せぬ欲に溺れた生き物にもなったが、培ったものは変えるまい」
未だ立ち止まったままのクリムゾンを真っ直ぐに向いて、声を送る。
それは何でもなかった。
言い聞かせるための説教でも、聞かせるがための愚痴でもない。「わしは戦いのこととなると我が侭にもなる。…気がかりがあるなら次までには忘れて」
ただこちらに渡そうとして響かせるもの。
「何も背負わぬ一人のお主であれ。その時こそ、わしはお主に喧嘩を売ろう」
ただの俺だけに、伝えるための言葉。
「待っているぞ。わしはその真っ直ぐな視線を気に入った」
「…真っ直ぐ?」
それはお前だろう。
俺じゃなくてお前のことだろう。
俺がそんなにお綺麗なものをこの地上に向けるはずがない。
俺の望むべきはただ、
ただひたすらに。
灰色の世界にたった一つでも、花の咲くはずがない。
「笑わせるな…」
「笑わせたつもりなどない」
駄目だ。
それがどんな存在であれ、もう見てはならない。
聞いてはならない。
そうでなくては俺は俺でなくなって、
もう気付いてはならないものを知ってしまう。
「…笑わせるなッ!貴様と話すことなどもう無い!!」
遂には叫んで、クリムゾンはハンペンの横を駆け抜けた。
木々の生い茂る中を突き抜けていく。
探さなくては。
探さなくてはならない。
違う、俺のこんな雄叫びの行き先などではなく、未来を切り開くためのものを。それを大切なこととして忘れないでいるのに、
あの男から向けられた視線と言葉も忘れられずにいるのはなぜだ。
記録用の目玉は黙したまま、走るクリムゾンの後ろに付いて来ていた。
そこにはハンペンとの会話も記録されているはずだ。
一つの存在。
エネルギーの器。
闇への餌。クリムゾンは声にならぬ叫びをあげた。
悔しいという感情があっても、それのみではない。
悲しみなどでもない。
何を叫びたいのかすら己でも解らず、言葉にならないものを抱えて、
未練を残さなかったはずのつまらぬ世界を駆ける。
記録からその存在を消した。
生け贄候補としても語ることはなかった。
そして再びその姿を目前に見た時も、決して名を呼びはしなかった。
気がかりを解き放つ時期ではなかった。
そして何よりも、それをしてしまえば交わされた言葉も崩れていくように思えたのだ。己はそれを望まなかったのだろうか。
記憶からは、未だその存在が離れていかない。
もし重なりきらぬ幾重もの世界の果てに何時かまた出会う日があるならば、
自分はいったいどんな言葉を彼へ渡そうというのだろう。
たった今交わされるものはない。
交わされぬまま、二人の世界はまた分かれていった。