マルハーゲ帝国に対して、そこまで深く忠誠心だのを抱いているわけではない。
ただ四天王の部下としてそれなりの態度を見せるつもりではいる。
もっともそれも定められた時間に限られたことだったが、そこから外れれば何もかもが変わるのでもなかった。






「でさ、いいかも、って見てたらその程度のことで腰抜かしそうな顔してんの。あーこれダメだって思って」
服を替えてしまえば気は抜ける。
そうすればまったくの一般人に早変わりというのでもないのだが、まさか名札など付けて歩くわけではない。気分的にはすっかり自由だ。
「え、前の?ああいたっけそんなの、しつこいからもう狩ってやろうかと思ったけど。まあ追い払えたから」
そうなっても人間関係の方は違わない。
気安い友人の大体は別のブロックなりに務めていて、同じ基地にいるのは殆どが上司か部下になる。上司は彼と同じ立場の者達に比べ、すぐ側を固めるのに人数を使わない方針なので、実際に自分と同等であると言えるのはたった一人だけだった。
「…なによ、別にいいでしょ。かわいそうとかそういう感じじゃなかったの」
愚痴の聞き役をしてくれる優しい同僚。
一見まったくの無口に見えるが、付き合いも長いので何を言わんとしているかはよく解る。

『ラムネはさ、好みが厳しいんだよな。だってそんなクールな奴とかなかなかいるもんじゃ』

「文句あるー?」
多少不機嫌そうにして問うと、同僚は『そんなことないよー』とジェスチャーも交えて誤魔化した。

毛狩り隊四天王の部下という立場そのものは、業務が終わって服を着替えても変わるわけではない。
気に入らぬことではなかった。
無口な同僚は言っていることが解ればそれなりに気さくないい友人であるし、上司もやや生真面目で細かいところはあるが冗談も通じて楽しくやっていける。
恵まれているのには違いない。
しつこい男をあしらうのにこの立場ほど良い武器もない。

もやもやとしたものを感じたならば、それはきっと些細な物足りなさに過ぎないのだろう。
吐き出す先があるのも幸せなことだ。

「…あ。もーこんな時間、ごめん禁煙」
『そうだな。俺もう今日は寝るよ』
「んー、私もそうしよっかな…明日は何もないし」
『明日と明後日とで休みだもんな』
「明後日はスズちゃん引っ張って遊びにいくの。あの子真面目で息抜きできてないんだから」
『ああ。ポマードリング、この辺に来てるんだっけ』
「明日には着くってよ。スズちゃん言ってたし」
『金髪の子だったか…仲良いのは』
「四天王の部下って女の子いないのよねー。ルビーちゃんはあの歳だし、あんまり連れ回すわけにいかないでしょ」

言いながら立ち上がるラムネに、禁煙は視線で呟いた。

『プルプー様に言われたこと、覚えてるか?』

「……覚えてるわよ。おやすみ」
言葉で呟き返して、踵を返す。
行き先といっても同じ建物の中だ。毛狩り隊にとって、基本的に帰る場所というのは所属している基地になる。
ラムネにとっての帰る場所もまた、上のフロアにある個室であった。

『…ラムネ、ちょっと疲れてるみたいに見えるよ』

禁煙の声なき言葉は、既に遠くで揺れる長い髪の毛まで届かなかった。







翌朝は早くに目覚めてしまったので、何となく身だしなみを整えて外へと出た。
同僚の禁煙を真似て散歩などするのも悪くないと思ったのだ。どうせ予定のある日ではないし、入れようとも思えなかった。

早朝の森の草は軽く湿って踏み心地も優しい。
空を飛んで動けば早いのだろうが、仕事の時でもなければ人目につこうがつかなかろうが歩く方を選んでいた。
便利な力だとは思っている。どうしても急ぐ時などは走るよりずっと早いのだが、なんだかんだで地に足が付いている方が楽なようだ。
(まあ、人間だもんね…)
鳥ではないから。
天下の帝国で上の方に数えられる人間といっても、人並み外れた真似ができるわけではない。
人間離れという言葉が似合うのは例えば真拳使いである。彼らからすれば空を飛ぶ能力など大したことには思えまい。
帝国四天王と呼ばれる男達も真拳を使う。

例えば、鼻毛真拳。

毛の名のつく真拳からは、かつて帝国の滅ぼしたという『毛の王国』に繋がると聞く。
ラムネにとっては身近な話ではなかった。物心ついた頃には既に世界の殆どを帝国が支配していて、その王国の壊滅というのもラムネが生まれたか生まれていないかという二十年前の話だ。
隊員にも殆ど知るものはない。当時それに関わった者達は、その殆どが隊には残っていないらしい。
どちらにしろそれを語る者を見たことはなかった。
故に鼻毛真拳という名にそこまでの衝撃を覚えることもなかったが、それを使うという男が四天王に名を連ねて暫くの頃、直属の上司から聞かされたのである。

『あの男は部下達と一緒に帝国をどうにかしようと企んでいるようですが』

『放っておきなさい。まだ大した問題などではありません』

『この先にも、天下を獲るには至らないでしょう』

至らない。
至らなければ、どうなるというのか。
『あの男』が何らかの行動を起こそうとした時、既に彼の企みに感付いている帝国は決してそれを許さないだろう。
あの、軍艦という男。その部下も。

折角週末に近くまで来るのだから一緒に出かけないか、とスズに誘いをかけたのはラムネだった。
何か探ろうなどという他意はない。
スズという少女は初めて見た時から本当に真面目で、いつも唇を結んで頑張っているのは逞しいが逆に壊れそうに思えたこともあった。子供という歳の子ではないのだし、仕事のことは忘れて連れ回すぐらい構うまいと思ってのことである。
例え彼女もまた、つまりは偽りを抱えているのだとしても。
スズはラムネに対して時折、申し訳なさそうな表情を隠し切れずに零すのだった。

(スズちゃん、かわいそうよね)
前だけ見ているような男の後ろを歩こうとすれば、当然なかなか視線は交わらない。
軍艦がスズを大切にしているのは解る。企みを隠そうとしている彼の、それだけは偽りではあるまい。
四天王のやり方を客観的に見つめる機会も少なくはないのだ。企み云々を抜きにして、軍艦のそれは見ていてよく解った。
解るだけに、スズが彼のためにと思うようにできずもどかしがっているのも感じられて、可愛らしいが心配もする。
ラムネは未練がましい男を好かなかった。が、だからといって後ろを見ぬような逞し過ぎる男もどうだかとは思う。
そんなものは個人の好みの問題だが、ラムネが昔から憧れてきた相手は、大抵強そうでそのくせ寂しげな男だった。
綺麗で滑らかに冷たくどこか脆く。
その点で成長していない自分もやはりどうかとは思うこともあったが、追いかけるのは別に構わなかろうと割り切っている。




そんなことを考えている内に、気付けば森を抜けていた。
プルプーの基地はそこそこ広い森の端の方にある。元々移動することも可能である要塞なのだが、プルプーが仕事をするのに心地よいと見た場所を多少整理して落ち着いたそうだ。
街へ出るのにはやや遠いが、ラムネにとっては不便という程でもない。
(…あったかい)
昨日までやや肌寒かったのが嘘のようだ。
ジャケットをやめたのは正解だった。ぼうっと歩いている内にジーンズを汚した砂を払いながら、無人の野原で息をつく。
森の中と比べて乾いた草は、一歩進む度にさくさくと声をあげた。

空気を吸い込もうと伸びをすると、視界にぼうっと霞がかかる。ゆるりとした眠気が脳を波打った。
これはいけないと思って首を振ると暖かな空気が頬を包む。
間の悪いことに、寄りかかるのに良さそうな大木まで視界へと入ってきた。
(ちょっとぐらいなら…いい、かな……)
どうせ人の通りも無いところだし。
思ってしまうと訂正する力も残っておらず、ラムネの足はふらふらと優しげな木へと向かった。
たまにはそれも構うまい。
髪の毛だけは汚さないようにと気を遣いながら、草の上で膝を折って目を閉じる。


ぼんやりと、幼い少女の幻を見ていた。
気の強い娘だ。同い年の女の子を引っ張って、歳上の男の子相手に口喧嘩をする。
生意気だと言われることもあったが好かれることもあった。
可愛らしく手紙を書いてきた者もあったが、少女は首を振った。少女には憧れの相手がいたから仕方ない。
憧れの相手というのは近所に住む青年で、彼には彼の同世代の相手がいることは少女にも解っていたが、それでも憧れには違いなかった。
青年は綺麗でどこか寂しげな男だった。暫くして遠い街へと引っ越していった。
恐らくは、少女の名すら知らぬままだっただろう。

声に出して嘆くことなどなかったが、寂しいのには違いなかった。

成長する内に少女の運命は二転三転をした。
戦う力を持つようになった。それに相応の地位に就いた。
納得していたし満足もしていた。上司にも同僚にも、友人にもそれなりに恵まれている。
幸せに違いない。
微々たる物足りなさなど、ほんの我が侭に過ぎないほどの。
まさか幼かった頃の様な憧れなども抱かなくなった。格好良いからと視線をやることは幾度もあったが、暫くすると忘れてしまう。
それはほぼ空に近い感情であった。
どこか儚げな仕草に巻き込まれて抱く切なさだの、別離のために感じる寂しさだの、そんな可愛らしく柔らかい想いはただ懐かしむものになったのだと思っていた。
そういうものだと解っていた。構わなかったはずだったのだ。

あ、の、一、瞬、ま、で、は。





ラムネはすぐ側に人の気配を感じて、反射的に瞳を見開いた。

間違いなく眠っていた体が打ち上げられたように覚醒する。
気配には悪意を感じなかったが、真っ直ぐにラムネを貫いたのには違いない。
「誰?」
問うたが、しかし立ち上がり対処する必要はなかった。
相手は逃げ隠れをする意思なども持ち合わせてはいなかったのだ。
彼はラムネの前に佇んでいた。それなりに見知った顔で、そう、少なくとも『この場では』何かしてくるような相手ではないのに違いない。

「…あぁ、軍艦様…じゃあないですか」
「……起こしてしまったか」
「いいえ。お恥ずかしいところを」
改めて、ラムネは立ち上がった。
恥ずかしいのにもまた違いない。この男、軍艦は上司の同僚である。
公の場においてラムネより上の立場である彼に、プライベートを寛げてしまっていたのがやや情けなかった。
「…ああ、ええと。ポマードリングがこの辺りに来るとは伺っていましたが、早かったのですね」
「よく知っていたな」
「スズさんから」
「スズが?」
「ええ。…私が我が侭を言って話し相手になってもらっているんですよ」
それにこの男は、必ずしも全く安全な相手ではないのだから。
「身近に同じくらいの歳の人がなかなかいないものだから、ちょっと嬉しくて」
本音である。
しかし軍艦とその部下のスズに関する上司の話も、恐らくは真実だ。
プルプーはくだらない嘘など好まない。実際軍艦に何らかの動きがあるのも確かだ。

この男は、嘘を纏ってここに立っている。

「軍艦様はどうしてこちらに?」
「散歩でな。…ええと」
「ラムネと申します」
「そうだったな、すまん。プルプーの部下なのは解ってるんだが」
ほんの少しだけ鼓動が早まった。
焦ることなどない。ああ、この男が自分の名を知らぬのも仕方のない本音であろう。
四天王の他の連中の部下に関する記憶など、それこそプルプ−が一番几帳面なのではないだろうか。
「…お一人で歩いたりなんかしてよろしいんですか?」
ゆっくりと尋ねると、筋肉質の男は遠くの方を見た。
ポマードリングはそちらに着陸したのだろう。二人のいる場所からは見えないが、恐らく遠くでもあるまい。
「休日だからな。休ませてやらんのでは可哀相だ」
「あら、お優しい」
企みごとがあるにしては。
やや捻くれたことを考えはしたが、彼の部下思いもまた嘘ではないらしい。
軍艦は隊員をまるで私設部隊のように扱っている。面倒見が良いといえばそれも間違ってはいないだろうが、つまりは軍艦について行く隊員達もまた彼の企みごとの協力者なのだ。
スズも。
「スズちゃ…いえ、スズさんは?」
「スズは真面目だからなぁ。明日には出かけさせてもらうんだから今日ぐらいは御一緒します、なんて聞かなかったんだが」
「…明日って、ああ。すみません、それ私が」
「ん?そうだったのか、いや気にするな」
ラムネの方を向いて、軍艦は首を振った。
「明日出かけるなら尚更今日は休めと言っておいた。スズを誘ってくれたのか」
「近くに来る、って教えてくれたものですから」
「それは有り難いな。あいつはそっとしておくと息を抜かんから」
思わず互いに苦笑いを交える。
その認識に関してはスズと全く違った付き合い方をしている二人の間でも同じらしく、確かにスズは人が好くて、真面目な故に損をすることもあるような少女なのだ。
共通の知り合いの中ではプルプーも真面目に仕事をこなすようなタイプではあるが、彼は上手に頃合いを見て息も抜く。
「いい子ですよね、スズさんは。慕われている軍艦様が羨ましいぐらい」
「そうか?……そうだな、俺には勿体ないくらいだ」
軍艦の髭面が照れくさそうに綻ぶのが解った。
ラムネも笑う。そして、彼のそんな様子が演技などではないとも再確認する。

その幸せは偽りではないし、ラムネに語るために飾り包まれることもない。
彼の抱く嘘はもっと奥深くにひとつ、その『企み』は帝国に対して抱かれたものであるから、ラムネを前にそこまで意識するものでもないのだろう。
そしてラムネも偽っている。
彼の企みというのが真実ならば、『知っているのに知らないふりをして』いるのだ。
彼に対しても。友人になったつもりのスズに対しても。
それは立場がゆえには仕方のないことであった。
心の内で唱える。

あなたは私の名前だって覚えちゃいないけど、私はあなたをどうにかしようと思えばできて、そしてあなたの企みを、何となくだけど聞いているのよ。
プルプー様はもっと強い。
OVER様は更に強いし、それを超えて一番強いのはハレクラニ様。
帝国を乗っ取るなんて一筋縄じゃいかないわ。

それらの思いはつまり、言葉には現せないものであった。
その偽りのためにまた別の言葉も紡げない。


スズちゃんがあなたのことを話す時、とても幸せそうにしているの。
だけれどほんの少しだけ辛そうな顔もするの。
あんなにいい子なんだから、時々は歩きながらじゃなくて、ちゃんと立ち止まって振り向いてあげて。
スズちゃんは言うけれど、あなたは優しい人なんだって。
スズちゃんは言うけれど、あなたは純粋な人なんだって。
嘘をついているくせに。
でも、その優しい言葉なんかはきっと嘘じゃあないんでしょうね。
スズちゃんの言う通り。
私にだって感じられるもの。だからスズちゃんのことも心配になるんだもの。
きっと企みの足枷にもなるわよ。
隠し事なんかと関係ないところで、
あなたの不器用な真っ直ぐさ。


また、鼓動が早まった。
ちくりちくりと叩かれている。痛む。

「その辺りは俺じゃどうも駄目らしいからな、スズに息抜きさせてやってくれ」
「……私でよければ。でも」

懐かしくて、それだけに哀しい感覚だった。
まだずっと世界が広かった幼い頃のことを思い出す。
大切なものと多くを呼んで愛し、憧れを見付けては想った時。
始めは痛みなど知らなかったが、成長するにつれ感じるようになって、憧れを忘れる頃にはそれも一緒に消えた。

「でも…軍艦様もたまには引っ張ってあげてくださいね」


あの子にはその方がいいでしょうから。
あの子にはそれが幸せでしょうから。
だってあの子はあなたが大切なんだもの。段々私にも語ってくれるようになったもの。
あの子はあなたが大切なんです。
あなたがあの子を大切にしているのと同じくらい!


「そしたら、きっと、…」

気付きたくない。
痛みを伴った時、それがただの憧れや寂しさではなくなったのだと、今更知りたくない。
たまたま忘れかけていたそれが此処で蘇ろうとしているのに気付きたくない。
あなたは偽りを抱いた影なのに。
あの子は私に偽っているからと感じる痛みを隠しきれない、あんなにいい子なのに。
なのに私は何を思う。

「…きっと、喜ん、で………ッ」

ばかね。
あんな、たった一瞬だけのことなのに。
初めて会った時、挨拶した後、辺りを見回してから見せた横顔が、
ほんの少しだけ寂しかった。
だから何か企んでるんだって聞いた時、そうだったのって納得したわ。
人の好いやつだなって笑って、それで、
あとは遠くから見てるだけ。

小さい時に抱いては手放した、ちゃちな憧れの延長戦。
スズちゃんがあなたのことを話してくれるのに、頷きながら膨らます。

知りたくたって遠過ぎる。
知っていることだけでも遠過ぎる。
私は今が幸せで、手放さないから届かない。
窓の外から眺めているだけ。
逞しさの中の一瞬の脆さ、前だけに視線を向けるはずの男の横顔を、
あの時私は見たのだと。



「…おい?」
ならば揺すられるような痛みは何のためであろうか。
これが夢の続きであるなら良いと思ったが、夢では痛みを与えまい。
「どうした?どこか痛むとか」
やや焦燥すら含んだ声で、軍艦は気遣わしげに尋ねてきた。

この痛みが彼のためのものであるとしたら、
もうここにいてはいけない。

「……な、んでも。ごめんなさい、なんだか…痛くって」
「怪我でもしていたのか?ちょっと待て、ポマードリングの方が近いかも…」
「いい、んです。すいません」
首を振って、ラムネは笑った。
「変なことではないと思います。…その、帰ったら、診てもらいますから」
「そうか。ならスズには」
「いいえ、何かあったら私から」
今日はゆっくり寝ておきますから。
その場凌ぎの誤魔化しを塗り固めて、軍艦の純粋な好意を押しとどめた。
そうだ。偽りに聞こえない。
企みごとをするくせに、こんなところでは本当に優しいようだから困る。
言葉を紡ぐ声色にそれを滲ませるから困る。
押しても倒れそうにないほど大きなくせに、ふと視線をやれば、寂しさと脆さの欠片を感じさせるのだから困る。

痛いのだと、その言葉に嘘はなかった。
言葉には二つの姿がある。
それそのものが持つ意味と、そこに込められた意思と、両方を抱いて交わされる。
ラムネはその意思の方だけを出来る限り封じ込めた。

「だか、ら…やだ、ちょっとほんとにぼうっとしてきたみたい。失礼しても」
「ああ勿論だ。プルプーによろしく伝え…いや、大事に」
「…ええ。どちらも」
少しばかり慌てている軍艦に、しっかりと頷いてみせた。
彼とスズはどこか似ている。感情を隠せず表情に出す。
「お気遣い、有り難うございます。お騒がせしてすいませんでした」
言ってから、不自然なのは解りきっていたが、振り切るように立ち去った。
スカートを履かなかったのも正解だったようだ。思い通りに動ける格好をしてきて良かった。

隠れるように森に飛び込んで、ラムネは唇を噛んだ。
頬に手をやる。乾きかけた水分の名残に濡らされていた。
あそこで拭っていたら乾く間も無くなってしまうと思って、誤魔化す事すらできなかったのだ。
やはり濡れたままの睫毛がほんの少しだけ視界を邪魔した。

暖かい木漏れ日も、まるで哀れまれているようでほんの少し悔しい。
空を飛んで風を切れば感じることもないのだろうか。
けれども鳥ではないからか、無意識に足が地を駆けていた。


天秤にすらかけられないままでいる。
このままいけば、恐らくは今ある立場の方を取るのだろう。自分はそこにも十分な幸せを見出してきた。
四天王の部下として、四天王の部下であるから、その日常からは決して届かない。
彼がいつか帝国に反旗を翻すのならば。

きっと天秤にもかけられまい。
だから揺らしたままでいる。知れど黙ったままでいる。無自覚のままの痛みは、重みになってのしかかる。
それがあの男のことであったのだとようやく自覚して、ラムネは自身を笑った。

奥底の偽りを知れない幼い頃であったなら、先程の時間もいっそ幸せであったろうに。








「プルプー」
「はい?」
突然の来訪者に、驚いた様子を見せたのは門番の隊員達のみであった。
名を呼ばれた方は平然と返事をする。
名を呼んだ方もそれに動じることはない。
「わざわざ挨拶無しで訪ねてくるなんで何ごとですか、あなた」
「いや。特に用はないんだがな…」
帝国の幹部二人の対峙は、穏やかな森にはどうも不釣り合いだ。
その場に居合わせた禁煙はそんなことを考えながら、顔を見合わせる門番達に視線をやった。
たまたまプルプーがここにいたのは幸いだったのだろうか、否か。どうやら来客はここで話を進めてしまうつもりらしい。

「お前の部下のことで」
「このひとですか?」
「いや、もう片方」

いきなり話の矛先が自分の方に向いたので、禁煙は驚いた。
自分でなくてもう片方ということはラムネだ。
彼女は最近どうも調子がおかしい。今日とて、朝早くに出かけて昼前に帰って来たと思ったら閉じこもってしまった。
「ラムネさんですか?」
「ああ。さっきたまたま会ったんだが、どうやら体調が優れんようだったんでな」
「それでわざわざ?」
「きちんと帰り着いたか心配だったんだ。走って行っちまったし」
禁煙が確認をする前に、プルプーは頷いた。
「確かに、先程帰ってきて休んでいるようですね。今も寝ていると思いますが」
「そうか。なら良かった」
「具合が悪いというなら起こすわけにもいかないでしょうから、代わりに礼を言っておきます。どうも」
どうやら割って入るようなこともなさそうだ。続く会話を黙って見守る。
何があったのかは解らなかったが、どうやら軍艦はラムネを心配してここまで訪ねてきたらしい。
軍艦の企みの噂を聞いている禁煙にとっては、どうも不思議な話にも思えた。
「いや。じゃ、俺はもう帰る」
「もう?」
「ああ。早く帰ってやらないとスズが騒ぐからな」
「なるほど。良い部下じゃあないですか」
もっとも、彼も企みどうこうを外せば人の好い男だとも聞くが。
誰から聞いたのかと記憶を探って、そういえばラムネからだったのを思い出す。
昨晩には軍艦の部下と出かけるのだとも言っていた。

「それでは」
「じゃあな」

四天王二人はあっさりと別れた。
探り合いを避け合っているようにも見える。禁煙の知る限りでは互いに思うところがあるだろうに、例えば部下同士が仲良くしていようが特に口出しをすることはないらしい。
ラムネがいつか必要以上に傷付くことになりはしないか、禁煙にとってはそれが気がかりであったのだが、しかしプルプーに訴えるようなことでもなかった。
代わりに差し支えの無さそうな問いを被せる。

『ラムネに伝えます?』
「好きになさい」
『いや、でも』
「私は口出しをしないでおきます。といっても、これは上司としてではなく私の個人的な判断ですから」
『はぁ』

プルプーは禁煙の問いを読み取ったが、禁煙にはプルプーの意思が読み取れなかった。
基地に戻ってしまうプルプーと、それを見守る門番達に視線をやりながら佇む。

もうひとつどうも解らない。
なぜ軍艦はここまで一人でやって来たのだろうか。
それこそ帝国に対して密かな企みを持つ男が。
どんなに人が好かったとしても。

禁煙にとってはそれも、やはり読み取れたものではなかった。






自室のベッドの上で目を覚まして、いい加減眠気の晴れかけた意識でラムネは天井を見ていた。
当然医者になどかかっていない。
痛みというのは真実であったが体調が悪いなどというのは嘘であったから、その方面に相談しても仕方がないのだ。

こんなことを禁煙には愚痴できまい。
明日にはスズと会うが、それもどうにも憂鬱になってきた。首を振ってかき消す。
しかしながら当然のこと、彼女には尚更話せもしない。

適当に時間を見付けたなら、今こんな状態の自分に付き合ってくれる友人はあったろうか、とぼんやりと考えた。
それらもゆっくり浮かび上がっては散っていく。


(……ああもう、ばかみたい…)

ばかみたい。
子供みたい。
何度繰り返しても、全てを解決する言葉は見つかってくれない。











今回の企画唯一のノーマルカップリングでしたが、なんかもうギリギリです。
ちょっと痛々しいお話になってしまい申し訳ありません…
軍艦の企みとスズの忠誠とその後ラムネが登場した時のプルプーのセリフと、
なんて色々考えている内にあんまり幸せでない方向へ行ってしまいました(汗)
ラムネが破天荒から手紙貰った時の反応って、それまでのクールさとも比較してすごく可愛いですよね〜

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