『雨、降りましたね。やっぱり』 俺は濡れたってどうってことないし、丸洗いできるから、 「…何をずっと外を見ている?」 『ほら、いーからいーから、風邪ひーちまうぞ』 「ああ、雨降って来た」 『もっとそっちにやらないとお前、濡れてんぞ』 「…大したことじゃ、ないんです」 「大したことじゃ、ねーからさ」 雨が、降る。
『あーあ…しばらくやまねーなぁ、こりゃ』
『…荷物になっても、二本持ってくるべきでしたね』
『傘?』
『はい。誰かに連絡を取りますか』
『いーよ、時間かかるじゃん』
『じゃあ傘は隊長が使ってください』
『なんで』
『なんでって…』
『お前が使えよ』
大丈夫。
「……いえ」
「鬱陶しい」
「すみません」
「何だ」
「思い出していたんです」
「思い出す?」
「…くだらないことですよ」
『それは隊長も一緒でしょう』
『雨程度ならへーきへーき』
『でも』
『なんだよー、粘るなぁ』
『間違ったことは言ってません』
『早く帰らないとアイスが溶けちゃうぞ』
『だから、傘は隊長が』
『いいんだってば』
「やべ!傘、持ってきてねえじゃん」
「仕方ないな…天の助、走るぞ!」
「わー、へっくんまっ…てー………」
「…なんだ?どうしたんだよ」
「んー…ちょっと、思い出したことがあってさぁ」
「なに?」
「や、そんな凄いことでもねえよ。うん」
『隊長も濡れてます』
『いいっていったのになー』
『隊長が納得しないからでしょう』
『お前もじゃん。傘こっちに寄せなきゃなんなくて、手ェ痛くね?』
『…荷物半分、隊長が持ってるんですから。平気ですよ』
『まあ、いいってことよ。帰ったら風呂だなー』
『隊長、溶けないでくださいね』
聞き慣れなれた声、何度も言われて聞き慣れた言葉。
だが記憶を掘り起こすまでもない、その言葉はその声のものではなかった。
最後に耳にしたのはつい最近、否、百年も昔のことだ。
「ああ」
「水と相性がいいわけでもなく」
「まあな」
「泳ぐのも得意じゃないのにねぇ」
「いいだろう、苦手だから戦えないなんて言い訳は通らないということさ」
『好きだな、水ン中』
『得意でもねぇくせに、だから甘ちゃんなんだよ』
『足のつかねえ場所ではすぐ溺れそうになるクセして』
『お前、どうせただ水着が見たいだけだろ。バーカ』
「…笑うことないだろう」
「ああ、すまない」
本当に可笑しかったのか反射的に笑ったのか、解らなかった。
よくよく涙を流すその男は、普段は不思議なほどに涼しげな顔をしている。
「もういい。それより確か、毛の王国の男とその一味が宇治金TOKIO達との交戦に…」
「らしいな。次はお前のところだろう」
「あいつらが負けるか?得意なフィールドで?」
「どうかな」
確実には解るまいと、そう言いたいらしい。
その通り、自分にも解らなかった。何も情報が無いのならば負けるまいと考えただろう。
だが、あの男は戻って来ていない。
「…やられるものか」
「ああ。やられたとしても、次にはお前が待っている」
「その次は、お前が待ってる」
「負ける気か?」
「いいや」
そんな気は、欠片もない。
欠片も。
むしろ心は待ち構えてすらいる。同胞が戦っているというのに、なんと冷たいことを。
自分を笑おうにも、心からの笑みは浮かんでこない。
『甘ったれめ』
いつか目覚める日のことは薄らぼやけていて、来た時の楽しみでいいとも思っていた。
終わる時には終わる。
戦いというのはそういうものだとも、思っていた。
「もう、行くぞ。まだ次の次とはいっても待機命令が出てる」
「またな」
「またな、か」
「ああ。またな、だ」
男は、ジェダは、彼のように言葉を返しても自分を甘ったれとは笑わなかった。
コンバットは黙ったまま、ジェダが去った方角とは逆に歩き出した。
立ち泳ぎは苦手なのだ。浮き輪を調達しなければならないだろう。
無意識に空気の匂いをかいだが花の香は届いてはこない。
それでもその先に彼の姿を探す己に、今度こそ笑みを漏らした。
スーパーマーケットにいた頃、この季節になると必ず目にした文字。
特別に籠を置いて作られた売り場に橙や赤の凝った形をした菓子袋が溢れた。
大体は買われていって、残ったものには叩き値の札が付き、それでも幾つかは売れずに仕舞われていく。
時の流れを感じる時期の内のひとつだった。
トリックオアトリート。
あの頃よく、母親の買い物に付き合って退屈を持て余した子供の話し相手をした。
本当に話すだけで気の利いた遊びをしてやれたわけではないが、楽しんではいたし向こうもそれなりに楽しんでいたのではないかと思う。
『呪文を教えてあげるね』
赤、黄、橙、明るく飾られた光る店内で少女は笑った。
『トリックオアトリート』
『おまじないか?』
『お菓子くれなきゃ、悪戯するぞっていうのよ』
ハロウィンの日にだけ使える魔法。
私は魔女の格好をするの、ミシンで作るの、と少女は笑った。
『そりゃ、きっと似合うなぁ』
魔女は何も悪戯をしたりお姫様を眠らせたりするばかりではない。
幸せを運ぶ魔女だっているのだと、そう教えてくれたのも小さな子供だったっけ。
『ところてんさんもとなえてみて』
『トリックオアトリート』
真似事はしたけれど、天の助はそれ以上は何も言わずただ苦笑いをした。
既にとっくに賞味期限は切れてしまった頃だった。
「とりっく、おあ、とりーと…」
あの少女も大きくなって、今頃はそれを微笑ましいと笑っているだろうか。
そしていずれお菓子の籠を用意して小さな子供を待つ側になるのだろうか。
仮装とお菓子、トリックオアトリート。首領パッチと破天荒がハロウィンだとはしゃぐものだから思い出した。
黒にオレンジ、正確には金髪だが黄色。なかなか似合っている気がする。
トリックオアトリート。
毛狩り隊には子供の隊員もいることがあって、直接ハロウィンを祝うことはなくとも菓子だけは用意する決まりになっていた。
クリスマスや正月とは違うが、魔法の呪文をそっと待っていた夜。
買い込みすぎたキャンディーやチョコレートを最後には大の大人達で消費した夜。
ふと思い出したのは、ある少女のことだった。
あの男の城にいた子供。一人前の戦士であることを示した、恐ろしい敵でもあった少女。
彼女も例えば魔女に扮して、愉快だった仲間達や何より恐ろしいあの男に唱えるのだろうか。
トリックオアトリート。
なあお前さ、あの子がそう言ったらなんて言う?
じゃあ、俺がそう言ったらなんて言う?
ふざけんなって叫ぶかな、そんな感じがするよなぁ。
天の助は笑って、今は見えない銀髪の後ろ姿に唱えた、
TRICK OR TREAT!
決まり通りのHappyHalloweenは返ってこないだろうが、甘い菓子を期待しているのではないが。
ただなんとなく見えない甘さを感じて、酔いそうになって焦がれるのだった。