気がつくと目の前にはつまらない風景が広がっていた。 つまらない木々の列。つまらない草を含む土。つまらないキャンプの用意。 本来ならば見張りぐらい残していくはずだ。 直前の記憶。 本来の姿、は何らかの理由で『あの連中』と行動しているらしい。 ぼんやりとした意識を振り起こそうとした瞬間に、視界に何かが紛れ込んで来た。 テントの影、草の上。 周りの様子を見ると、どうやら『それ』が留守番役をしていたのだろう。 起きろ。 近付いて、叫んでやろうかと思った。蹴り飛ばしてやろうかと思った。 泣き叫ぶか固まるか。 思わず口元を笑わせながら、更にすれすれの場所まで寄ってやった。 馬鹿は薄らと開けた瞳をぼやけさせたまま、こちらをじっと見ていた。 「…へっぽこまるー」 『まったくの別人』の名を呼ばれて思わず声が漏れた。 「おかえりぃー……?」 ぺたぺたとこちらの髪先に触れてくる。 寝惚けた馬鹿にはこちらの顔が見えていない。 馬鹿野郎が。 かっとなって、斬りつけてやろうと思った。 「あれ、へっぽこまるじゃねーや…」 間違いは正された。 認識したのではなく、間違いに気付いただけ。 「あー…、おまえ……」 しかしどうやら、まだ何か言いたいことがあるらしい。 ぐぅ。 馬鹿はよりによってまた目を閉じた。 こちらの体に、正面から寄りかかって来るようにして。 「……」 「…テメー、天の助…」 起きて泣け、クソが。 自分を枕か何かと勘違いしているその苛立つ生き物を、 「……」 まさか今自らの身を、天敵に任せてしまっているとは夢にも見ていないだろう。 「…天の助ー?」 そこに、空間を割る様にして声が響いた。 『OVER』は天の助を自分の体に寄りかからせたまま、黙ってその呼びかけを聞いていた。 OVERは口元を小さく歪めて、寄りかかる馬鹿を軽く引き寄せた。 他の連中の戻る気配は未だない。
生き物の気配のない、飾り気もない晴天の下に広がる森の中。
キャンプの主達は揃って出払っているらしい。
そう思いもしたが、考えてみれば『自分』が見張りだったのかも知れない。
突然の変化にどうにも意識がぼんやりとして、直前の記憶は曖昧だった。
それはあくまで『最後にOVERだった時』の記憶であって、
その後に『本来の姿』が辿ってきた道は知るところではない。
そこにどんな考えがあるのかは知るところではないが。
仲間の帰りを待ちくたびれたか、どうやら眠りこけた、
『役立たずのところてん』。
視線をもう一度移すと、こちらの動きには気付きもせずにやはりそこにいた。
暢気な鼾をかいている、
どうなろうと嫌でも忘れられないであろう存在。
『自分』もそうだったか否かは解らない。
しかし、こうして寝こけているのではまったく意味がないだろう。
それはOVERにとってはどうでもいいことだったが、
そこまでにどんなやり取りがあったのかも知った事ではなかったが、
ふにゃふにゃと気分の良さそうな寝顔を見ているとそれだけは済まなくなってくる。
だが側へと寄った途端、腕すら伸ばす前にぼんやり目を開く。
そして、一言。
泣き声ではなかった。絶叫でもなかった。
「…あぁ?」
「…テメー、何言ってやがる」
「あはは、なーんか前よくみえね…なんだぁ、髪のびたー?」
振り払わぬままにして、その意味を考えた。
ここを離れているはずの、仲が良いらしい『物知り坊主』。
自分とは似ても似つかない。
ただ共通点と言えなくもない、
髪の色。
だがその意識に重なるように、一言。
「……!」
「だれー…?」
だが、どうしてか心の内が逆撫でされる。
手を離してゆらゆらと落としていきながら、馬鹿が呟く。
その続きを、待った。
待ってやったというのに。
ぐぅ、かぁ。
「…………」
すぅ。
どうしてやろうかと決めかねる。
泣き叫ばない。逃げ回らない。くだらないことを口にしない。
子供のような寝顔で、とろとろ気持ち良さそうにしているばかり。
どうにでもしてやれると思うと、何故か気分が良くなってくる。
『物知り坊主』の声。この甘えたがりの馬鹿に懐かれた『子供』の声だ。
長い時間この馬鹿をひとり残しておくのが単に不安だったのか、それだけではないのか。
あまりに深い眠りにはその叫びも届いていない。
『物知り坊主』ことヘッポコ丸は、この光景を見たら何と言うだろうか。
首領パッチが独り言のように漏らしたその台詞が風に乗る前に、
一人の男の足が動いた。
「買ってきました、おやびん!」
寒空にマフラーをなびかせて、下手をすると光の早さで走ったのではないかという男は帰還した。
「早ッ!…で、何?チョコか?」
「チョコ…!!すみません、おやびん!いちばん種類の豊富だったフルーツバーです…!」
男は思わず絶望する。
色とりどりのアイスキャンディーの描かれた箱が、彼の手とともに震えた。
「なに、フルーツだと!?」
その瞬間、それは取り落とされて重力に従った。
すかさず首領パッチが駆け寄り受け止めたが、男は既に再び走り出さんとしている。
「申し訳ありません!至急買いなお」
「…いや、待った!」
「しかし…!」
「ミルク味があるじゃねーか。許す!」
「…お、おやびん…!」
感動に震える男の声は、ゆっくりと風に乗って響いた。
気温は十度を切って一桁前半に達している。
とはいえ男の長い指には、フリーザーの冷気も身を切る寒さもどうということはなかったらしい。
「あー。やっぱりアイスは箱よねー」
「そうですね、おやびん」
箱の中身は溶けるよりも早くその数を減らしていく。
好きなものを選んでは開ける、食べるを繰り返す贅沢に首領パッチはご満悦だ。
男、破天荒の表情も当人以上に幸せに塗れている。
「ところで、破天荒」
「はい」
五本目の棒を箱の中へと放り込みながら首領パッチが問うた。
「おまえさー。寒くね?」
「え…」
六つ目の袋を取り出す首領パッチを見ながら、破天荒が答える。
「はんそで」
「ああ」
「っつーか、袖まくり」
「…えーと」
オレンジ、ピーチを二本ずつ制覇した上での二本目のメロンバー。
どちらかというと寒そうなのは首領パッチだ。
「…そうでもないですね」
「へー。…秘訣はマフラーかよ?」
「これも、まあ」
六本目のアイスキャンディーがしゃくりと噛まれて音をたてる。
それはまだ形を留めているが、残りはもしかしたらもう溶け始めているかもしれない。
「…でも、それだけじゃないですよ」
「まだ何かあるのか?」
「おやびん、当ててみてください」
にこにこと笑う破天荒に、首領パッチは一瞬アイスキャンデーを齧るのも話すのも止めた。
それでもすぐに再開して、残った部分に棒の横から口をつける。
ごくり。
飲み込んで、首領パッチは息をついた。
「あれだ、光でも集めてんだろ。髪で」
「髪ですか」
「だってお前の髪、いかにもそれっぽいじゃんか」
「…残念ながらおやびん、ちょっと惜しいですけどはずれです」
破天荒は金色の短髪に指先で触れてから、声を潜めた。
「おやびん」
「なに?」
六本目の棒が箱へと放られる。
「おやびんの側にいる時、俺はいつでも暖かいんですよ」
「……うん、やっぱり?」
「はい!」
どこかおかしい流れになったが、構わず破天荒は目を細めて微笑んでいた。
「俺は強い子だからな。別に寒くないし」
「さすがです、おやびん!」
「そうだろう!」
首領パッチは立ち上がると、偉そうに胸を張る。
そうしてから手に持った箱に片手を突っ込んだ。
溶けかけて水滴の浮いた一袋。
真っ白な雪の色、ミルクバー。
「やるよ」
「いいんですか?」
「ああ。やる」
ただ繰り返した首領パッチの言葉に、破天荒は黙って手を伸ばした。
少しだけ彼の温もりも含んで、受け渡された冷たい袋。
「溶けちまうぞ」
言いながら首領パッチは、箱の中に最後に残った一本を取り出した。
破天荒に渡したものと同じ、溶け始めた雪の色。
「…じゃあ、おやびん。いただきます」
「めしあがりゃァ!…で、俺もいただきます」
寒空の下、一箱八本のアイスキャンディー。
最後まで残った七本目と八本目は、ほぼ同時に封を破かれた。
だってほら、ボーボボとか首領パッチのヤツはそりゃもう絶妙なテンションでさ。
あんなに波長が合うって思ったのははじめてだったかもしれない。
スーパーじゃそんなこと感じたこともなかったし、
毛狩り隊で一緒だった連中にもいい奴から好きじゃない奴までいたけど、やっぱりどこか違った。
あんな風に楽しいのははじめてだった、
楽しいってことはそれなりに幾つか知ってたけど、あんなのはあの時がはじめて。
『あいつ』はその時、今よりもっとそういうのが苦手だったんだなあ。
ノリ悪いし。ぶっちゃけまともすぎた。
いや、真面目に戦ってないのもどうよって話ではあるけど。あれはあれで礼儀としてね。
いやでも待てよ、思い出してみれば敵だった俺が黙って混じってみても一度目にはツッコんでこなかったし、
あの時からビュティが流すくらいの解説好きだったっけ。
だったっけ?
俺も必死だったからなあ、特に最後の方。
二度目に出会った時は、人の好い少年だと思った。
彼らの内に入って暫くしてからだ。
あの時はビュティが攫われてたんだっけ。
みんないつも通りノってるっちゃノってたけど、やっぱりどっか真剣だった。
例えば、冷静に見えても先に進む事を急いてたボーボボ。
さりげなくボケながら相変わらずくそ、もといすごく真面目だったソフトン。
その時、俺の中でビュティはまず『人質にとっちゃった子』だった。
それは詫びなきゃいけないことだし、買ってもらえたことが凄く嬉しかったりもしたんだけど。
でも、やっぱりなんとなく馴染めてなかったんだよな。
なんで、首領パッチとばっかり遊んでた。あいつはあの時だって『ハジケ』てたからさ。
でも今になると解るんだけど、あいつはあいつなりにかなりマジだったんだと思う。
あの時軍艦と戦った町はヘッポコ丸の故郷なんだそうだ。
建物が壊れて煙がのぼって人がいなくて、酷いもんだった。
でも俺だってきっと同じ様なことしてたんだよなあって、そんなことをぼんやり考える。
ヘッポコ丸はなんだか礼儀正しくて、戦ってない時にはハジケにもノろうとしたりしてた。
俺はなんとなくいい奴だなあと思いながら、何も言えないでいた。
そんな場所だったし、
そんな俺だったから。
俺が首領パッチと遊んでた時、そこにヘッポコ丸が来たんだっけ。
あいつはさすがに怒ってた。
俺は別の理由で泣けていた。だって森のくまさんだったんだもん。
ヘッポコ丸は俺の魂の音色にストップをかけて、
手を伸ばした。
ほら、行くぞ。
俺はもうヘッポコ丸の二倍は生きてるんだけど、小さな子供に向けたみたいなその手を握った。
ちょっとだけ汗が滲んで熱かった。
その次の再会の後、二人で組んで戦うようにもなった。
きっかけはもうよく覚えていない。
ヘッポコ丸は俺のことを仲間だって言ってくれた。
生きてたのか、って嬉しそうに笑ってくれた。
ボーボボや首領パッチと一緒に俺のことまで心配してくれた。
一緒に技を考えたりもして、
俺はすごく楽しくて、ただ嬉しかった。
ヘッポコ丸に尊敬されるような猛者にはなれない。
ヘッポコ丸がライバルだと認めるような強者にもなれない。
それでもヘッポコ丸の優しさを知っている。笑顔を知っている。
ちょっとした冷たさも知っている。ちょっとしたどうしようもなさも知っている。
「なんだ、ここにいたのか。…天の助?」
「んー」
「どこ見てんだ?」
「空ー」
「…空?」
「俺とどっちが澄んでる?」
「…空かな」
「えー!?」
「ああ、悪かったよ。泣くなって…わ、つく、つく!」
「キャッ、ごめんなさい。お詫びにこのぬのハンカチで…」
「……」
「うわあ!…毎度ぬのハンカチになんの恨みがあるの!?」
ヘッポコ丸。
みんな。
みんな。
その幸せに笑ってから、
ときどき少しだけ痛くなることがある。
蘇るものが優しいだけ、俺は自分の在る位置を自覚する。
俺はいつかお前のことを
また『裏切ったり』するんだろうか
「なんだ?」
「…なんでもねえー」
「なんだよ。…ていうか、あんまりふらふらするなよ」
「…はーい」
「ほら、行くぞ」
「うん」
蘇るものが優しいから、
きっと今はなんでもない。
なんでも、ない。
普段は乾いてしか響かないその声が、どこか濡れた熱を帯びていた気がする。
この目から見れば遠い存在だ。
それがこの目を見せろとは、どういうことか。
否定するわけにもいかず、黙って彼の動きに身を任せた。
額を覗き込まれて、左と右の目は伏せる。
「…白狂様」
「なんだ」
「…なにか、見付かりました?」
彼は何かを探しているのだろうか、それは解らない。
それでも何かを問いたいというなら出来る限りは応えよう。
だが彼は、この三つ目の瞳がどういった意味を持つかなどどうに知っている筈だ。
「ずっと思っていたが」
「はい」
「…不思議だな」
「…ええ、まあ」
不思議と言われればそうなのだろう。
他人には無く自分には有る、そのぐらいは考えなくても解ることで、
見知った間柄では改めて言われることもないだけだ。
その視線が、一つの瞳に釘づけられたように向く。
仲間はずれの左右の目は、気まずく泳いだ。
「…どうやって治せばいいか」
「…はい?」
「可愛いサリー達の額には、お前のような三つ目がない」
「白狂様…?」
「ならばお前のこの部分を…どうやって手術してやろうか」
白狂の視線はただ、額のその第三の目にのみ注がれていた。
まるで他のものなどまるで見えていないかの様に。
引きずり出し、引きずり込むつもりでいるかの様にして。
「…!」
白狂の体が近付いてくるのを感じる。
距離が縮まって、白い服を纏った胸が目前に現れた。
「よく、見せろ」
その、声。
それはまるで、普段の彼とは違っていた。
どこか上擦った、幼子に言い聞かせるような声。
「見せてごらん。…クリムゾン」
その瞬間、
全てが吸い込まれるかと思った。
「白狂」
だが、自分ではなく目の前の男を呼ぶ別の声がクリムゾンを覚ます。
視界は白狂の姿に塞がれている。
それでもその先に在る『別の声の主』は聴覚のみでなんとなく知れたが、白狂の声がそれを確実にした。
「…ベーベベか」
「あんまり坊やをからかうんじゃないぜ」
闇帝王ハイドレードのもう片方の腕、白狂と並ぶ男。
その声はどこか楽しげにも聞こえてくる。
「可哀相に。戯れるなよ、白狂」
「…ふん」
息をついた様な白狂の声。
それはもう、普段の彼のものだった。
あの底の知れない、自らの痛みすら厭わない彼ではない。
「クリムゾン」
己の名を呼んだのはどちらかと一瞬迷ったが、白狂の方に違いなかった。
「…は…はい」
どうにかして声を返す。
白狂の表情が普段の彼の色をしていて、どうにか捻れそうになっていた鼓動も落ち着いた。
「今度ははっきりと見せろ。…何かあったら、治してやる」
「…は……い」
治してやる。
その声のみが、浮いた様にまた熱を帯びた。
ベーベベが白狂の背を押す様にして、帝王の両腕は歩き去って行く。
ベーベベのみがクリムゾンに対し、軽く手を振ってみせた。
彼らはどんな会話を交わすのだろうか。
やはり白狂はベーベベに何かを求めるのだろうか。
そして、ベーベベはそれに応えるというのだろうか。
『治してやる』
その言葉と、撫でるような声とともに、あなたはあなた自身すら傷つけるのでしょう。
クリムゾンは己の両の瞳をゆっくりと手で覆った。
ただひとつ開いたままの、彼と合わせていた第三の目は、
未だに熱をうつされたまま瞬いている。