ただ流されていくような錯覚を振り切って、見えた光景の中には何も生きてはいなかった。
「…すっかり殺風景になったな」
その場所は最初から間違いなく荒野だったが、それでもつい先程までは恐ろしく騒がしかった。
やがて合図とともにそれは最高潮に達し、速やかに沈黙が訪れる。
沈黙は続けて静寂を生んだ。
それ以上『抵抗』を見せるものはなく、全ての動く影がそこから立ち去った。
ハンペンはひとりそこに立って、その風景を見ていた。
荒野はいつから荒野だったのか。如何にして荒野となったのか。
最後に残った『自分ら』の撤退の時になれば、誰かしらが知らせに来るだろう。
その時はじめてこの場所でのひとつの出来事が終わる。
視線とは逆の方向から近付いて来る気配に、ハンペンは無意識に振り向こうとした。
が、それを正確に感じ取った瞬間に身の動きを止める。
「お前か」
「…あー、まずかったですか?俺が来ちゃ」
てっきり誰かが命令されて呼びにやらされるものだと思っていたが、
そこに感じ取った気配と影はよりよく知ったものだった。
この場で彼に『命令』できる立場の者など自分ぐらいしかない筈だ。
「いや。面倒でないならな」
とりあえずは自分を呼びに来るにしろ、何か別の理由でこの場所に来るにしろ、
彼の自由であることは間違いない。
「…わしを呼びにか?」
「あ、それも」
ハンペンの言葉に頷いた影は、ゆっくりと歩いて隣に並んできた。
「あとは。…荒野でも見にきたか」
「たぶん、それも」
その視線がハンペンから、広がる荒野へと移る。
正確にはどこを向いているのか解らない。
彼はいつもヘルメットを深く被って、顔の上三分の一ほどを他者から隠していた。
とはいえ意識している様には思えない。
単に彼の趣味なのかも知れないし、何らかの別の意味でもあるのかも知れない。
「また、元通り静かになっちまいましたね」
「…元通り、か?」
「ああ。昔、ここで仕事したことが」
「そうか」
「その前にも来たことがありましたよ」
まだ一般の隊員だった頃出張で、と男は付け加える。
「その時もここで『仕事』か?」
「いや。気に入っただけです…変わらないな」
「気に入る?」
「まあ、なんとなく」
瞳は解らなかったが、男の口元は小さく笑った。
視線は広がる荒野に向けられたままだ。
「なら、この先を知っているか?」
この場所からは終いが見えない。
いつかは終わるのだろうが、今目の前に見えるのは本当に荒野ばかりだ。
戻ってしまえばその果てなど見ることはないだろう。
「…いや。それは見てなかった」
男は小さく、肩を竦めた。
「もう、戻るか」
呟いて、ハンペンは踵を返した。
横の男の動く音もする。
が、大地を擦る靴音は短く響いてすぐ止まった。
「ハンペン様、ちょっと」
「ああ?」
振り向くと、彼は二本揃えた指を正面の、やや斜め下に向けていた。
そして。
「バン!」
声とともに、その指を軽く振ってみせる。
「なん、だ?」
「……ってやったら、吹っ飛びませんかね」
「何が」
「いろいろ」
男は首を傾げた。
ハンペンとしても同じ様に首を傾げるしかない。
とりあえず自分に向けてでなかったのは、彼なりのやり方というものだろうか。
「あー。これ、菊之丞には効いたんで」
「菊之丞?」
「前ここで仕事した時、あいつが一緒だったんですが」
「ああ」
「元気よくヘッドロックかまされました」
「…それは、『効いた』ことになるのか?」
男は黙って、ハンペンの顔に視線を向けてきた。
無言に無言。
男はふ、と笑う。
「…たぶん」
「……」
『吹っ飛んだ』のか。
ハンペンは軽く身を動かして、考えてみた。
確かになぜだろうか、何かが軽くなった気がする。
それまで頭の内に溜めておいたものが、浮き上がっては溶けていく様に。
なるほど、不思議と気が楽になったようだ。
ヘッドロックをかましたのだという男もその時、
同じ様に笑ったのかも知れない。
「…まあ、いい。もう行かねばならんのだろう、コンバット」
「あ。そうだった」
男は大したことをしたような顔をしてはいなかったが、未だ小さく笑みを浮かべていた。
彼自身で考えたのか、それなりによく効くまじないだ。
軽く真似てみる価値はあるかも知れない。
けれどもあのかけ声は彼のものであろうから、
代わりに何か考えておくべきか。
逞しさだけではない食王は、やはり笑んだまま緩やかに思考を巡らせた。
『…隊長…隊長?』
『あれ?副隊長、何やってんですかあ』
『…サカナ兵か。隊長、知らないか』
『隊長?…だって。お前知ってる』
『知らねー。隊長室にいなかったんですか?』
『いや……仕方のない人だな』
あのひとはやるべき事は忘れなくとも、時間の方をすぐに忘れてしまう。
約束でもしておけば大体は忘れないでいるのだが、
そうでもなければすぐに立ち上がってふらふらどこかへ行ってしまうのだ。
『隊長』
誰かの名を呼びながら歩くことなど、それまでは考えたことすらなかった。
けれどもそのひとは本当に仕方のないところがあるから、
心当たりの場所をまわって呼ぶしかない。
必要な時。
求める時。
『…隊長!』
『はーい』
俺の声を聞き取ると、あなたは気まずい様子もなく俺の前に姿を現す。
確かに後ろめたいことがあるでもなし、隠れていたのでもないだろうが。
『呼んだ?』
『……』
『呼んだか、カツ』
『呼びました』
『やっぱり』
『いつから聞こえてたんですか?』
『いま』
『今…?』
『だろ?』
それは最後に張り上げた声しか彼のところまで届かなかったということ。
それは彼が自分の声を受け取ってすぐに、飛び出してきたのだということ。
喉の奥から声を張り上げることにはどうにも慣れなかったが、
しかし彼に届いたのはそのとどめの一言だった。
ふらふらと意思の定まらない人だから、どこにいるのか一筋縄では予測がつかない。
それでもだんだんと出会えるまでの時間が狭まっていくことに、
最後の一声をあげる時が解ってくることに、
悪い気はしなかった。
『何をしてたんですか?今日は』
『あ、怒ってる?』
『別に』
『あー、悪かったってば。昼休み終わるまでちょっと木陰にいようと思ったら、ついうとうと…』
『…そうですか』
『……ん?ってか、まだ終わってねーじゃん!昼休み』
『そうですね』
『なんだよー!じゃあ昼寝するか』
『もう終わりますよ。それに、これ…判子の押し忘れ』
『いーじゃん、そんなの後でさあ。あ、お前も昼寝しようぜ』
『…た、隊長?』
『いーからいーから、ほらこっちー』
『…隊長。たまにはブロックでも、隊長会議の時みたいに真面目な顔してみてください』
『あれ、ずっとやってると疲れる』
『……そうですか』
本当に、どうしようもない人。
「隊長」
そう呟いたのは何度目だったか。
声に出したのは、まだ一度か二度ほどだったかも知れない。
心の内で繰り返した。
あなたを探して歩き回りながら口にした言葉を。
あなたを探しながらでなく、遠くにあなたの背中を見ながら。
「隊長…」
再び、声に出た。
もうそろそろ最後の、とどめの一声を張り上げる頃だ。
そんなつもりは無いのに始まった隠れ鬼の終い。
あなたを探すためではなく、あなたに届けるための。
(…隊長!)
けれども、
あなたはうたた寝をするのでなく、まるで遊びはしゃぐ様に『戦って』いる。
あなたはひとり木陰にいるのではなく、俺の知っている俺には解らない連中の中にいる。
隊長
俺は、ここにいます
『呼んだ?』
それは彼の声であり、彼の口から出たものではなく、
己の中の記憶から蘇ったものだった。
少し楽にした低い声。ゆっくりと響いて優しく消えていった音色。
「…貴様、あの連中にそんなに興味があるか」
「……」
「らしいな」
「…いいえ」
いいえ。
いいえ。
己の内に己の声を繰り返しながら、最後にもう一度。
声に出さずに叫んだ。
行ってしまったんですね、隊長。
どうして行ってしまったんですか。
いつもの様に俺の見ていないところから、いつもよりもあまりに遠い場所へ。
「みてみて、花柄のホルダー!似合わない?」
「わあー、かわいいのらー。ホルダーはな」
「いい買い物したわー」
「モグラが泡吹いたとこから勝手に持ってきただけなのら」
踊るパチ美の横を走りながら、天子は新しいアクセサリーを田子に自慢していた。
花柄のホルダー。
肩に装着可能で、バッチが十個入る優れものだ。
ただしパチ美の腕は細すぎ、天子の腕は滑らかすぎたために上手く装着できていない。
「美しいって罪ね」
「へー」
田子は荒んだ笑いで返してくる。
「アンタ失礼よ!…あ、もういいやコレ」
天子は憤慨した後に、ホルダーを適当に投げ捨てた。
パチ美のホルダーなどとっくにどこかへ置き去りにされている。
もっとも彼らの中ではボーボボの勝ち取った皇帝の座を自分らが頂く仕組みになっているため、
ホルダーなど無くともなんの問題もない。
先頭を走るボーボボ。
それに真面目な表情で続くソフトン、ヘッポコ丸。
ヒロインの座を賭けて戦いを挑むパチ美。そのちょっかいを迷惑そうにあしらうビュティ。
そして天子こと天の助と、田子こと田楽マン。
同時に侵入したはずの破天荒は今のところ姿が見えない。
帝国の王座を争う戦いは、基本的に関係者の内で行われる。
『反帝国のボーボボ一行』は本来ならば場違いなのだ。
「いやしかし、かんっぜんに裏切り者だなー。扱いが」
「当たり前なのら。ランク付けに残ってたのすらおかしいレベルだろ」
「あ、お前持って来た?鉄クズ」
「捨ててきたのらンなもん!」
「似合うのに…」
「おまえのが似合うのら…」
救われない会話をしながら、天の助と田楽マンもその一行の中を走る。
鉄クズどうこうはこの際置いておいて、彼らの名は未だ帝国から消えていなかったらしい。
「もうクビ扱いのはずなのら。よっぽど混乱してんのら」
「皮肉で残しただけじゃね?」
「かもね」
ボーボボにブロックごと敗北した責任を取らされ、毛狩り隊を除名された二名の隊長。
帝国側としては面白いはずもないだろう。
反逆者の一行の中にいつの間にか紛れ込み、相手によっては『ボーボボとの融合』までやってのけたのだ。
「他のやつら、来てねーのかな?」
「バイトの連中がわざわざ四天王や幹部に喧嘩売るのら?」
「資格はあんだろ、資格は。バイトじゃないヤツもいるし」
「どんなヤツいたっけ?覚えてねー」
「あ、Zブロックって上位ブロックの会議には来なかったもんなぁ」
「当たり前なのらー。俺らの存在はトップシークレットだったってわけよ」
「でも俺、噂ぐらいは知ってたぜ。Zが最強だっての」
「マジで!?」
それらの会話は前の三人、その後ろのふたりには聞こえていないようだった。
最後尾を走る天の助と田楽マンには足音すらない。
片方は柔らかすぎて、片方は軽すぎて。
「それよりお前、考えたのら?」
「なにを」
「隊長がクビになったんだから、副隊長が繰り上がっててもおかしくないのら」
「そーね」
「資格もあるかもしれないのら」
「…かもね」
「…キバハゲは、たぶん来ないのら」
「そうか?」
「あいつはそういうの、興味ないのら。自由の方が好きなのら。たまにしか遊んでくれなかったのら」
「そういや会議ん時も、副隊長より女の子のがよく来てたな。…えーと」
「ヒビ?」
「あ、そうだ。そんな名前」
「…ヒビ、いいヤツだったのら」
「…ふーん」
はじめから反逆者に設定されたバッチなど無いはずなのだから、鉄クズバッチでもなんでも捨ててしまえばいい。
皮肉というのは間違いでもないだろう。
手放さざるを得なかった隊長の名と同じで、
今ではもうきっと意味を成さない。
「会いたいか?」
「会いたくないのら」
「へー」
「でも、ちょっとだけ会いたいかもしれない」
「……」
「…どーせそんなの、今話したって仕方ないのら。……そう言うお前は何?」
「……俺?」
俺は。
『隊長』
「…俺は、ダメ」
「あー、お前は昔っからダメところてんだったのら。そういうキャラなのら」
「違うわ!」
彼の、おそらく通そうと思いながら出した『声』は必ず聞こえてきた。
飛び出して返事をすると呆れた様な顔をするのだけれど、
横に並んで歩いてくれた、
その声が。
「聞こえてもさあ」
『…隊長!』
「聞こえてもダメなんだよ。…俺からは、もう」
「……わかんね」
「……俺も」
同時に口をつぐんで前を見ると、そこにはもう闘いの場への光が見えていた。
あの場所へ足を踏み入れた時。
もしかすれば、つけるべき決着が待ち構えているかもしれない。
『あいつが近くにいる、かもしれない』
「…そん時は」
「…まだなんか言うのら?」
「…や。もう言わね」
『その時鉄クズのバッチに意味を見出さない、俺は』
通路を抜けた先の光へと、七人の『例外』が足を踏み入れた。
この場所にありながら、はじめからバッチなど持たされなかった者達。
意味の無い格付け。
しかし、何かしらの意味があったかもしれないこと。
元より注意深く出来ている田楽マンの目は、奥に待ち受ける影をふたつ捉えた。
天の助は首領パッチとともに足場のペットボトルに飛びついて何かやっている。
記憶に濃い姿は見えない。
しかし記憶にある姿ならば、見えて、いる。
けれども彼が何も言わなかったように、
その時には何も言わないでいた。