体温計は三十七度五分を弾き出した。
ならば当然大したことはないと考えられるが口うるさい友人の来襲により、
今に至る。
「あ!こら、大人しく寝てろって言っただろ!」
「大丈夫だって」
主張しても彼は聞きやしない。
押すか引っ張るかという勢いで、とにかくベッドへと放り込まれた。
「大した熱じゃないって言っただろ。汗かけば下がるって」
「必ずしもそういうものじゃないって父ちゃん言ってたぞ。あ、これ桃缶ね」
言いながら彼、ボーボボは袋を差し出してくる。
その動作にニャアという声が続いた。ボーボボの頭上よりその兄、ベーベベだ。
ベーベベも元はボーボボと同じ毛の王国の人間タイプであったのだが、
ある日たくさんの腕が生えた謎の生き物が現れて彼を猫に変えてしまった。
しかしボーボボ的にはそれはそれで問題ないらしい。
相変わらず下に敷かれてむしろ前より敬っている。
「風邪には桃缶だよな。ねー、兄さん」
「ニャー」
ブラコンというのはこういうのを言うんだろうか。少し違う気もするが。
「お前にベッドに逆戻りさせられたせいで、今日のトレーニングできないんだぞ」
「なに言ってんだよ。今日は元々休みだろ」
鼻毛真拳の修行は休みだが、個人的な日々の特訓は休みじゃない。
言っても聞かない兄弟は土産の袋を漁りはじめた。
「まあ、桃缶食えよ」
モモカンモモカンうるさい。
思いながら、軍艦は差し出された缶を受け取った。
そして勢い激しく顔をあげた。
「コレ蟹缶じゃねーか!」
「…スマン!つい出来心で…!!」
「どうしてこんなことを!?」
「ニャー」
「解りません、ベーベベさん!」
「兄さんも蟹が好きだって」
「モモカンはどーしたんだよ!」
実は軍艦は桃缶を嫌いではなかった。
仕方がないので桃缶を諦め、別の土産のスポーツドリンクを頂戴する。
熱のせいだろうか普段よりも美味いように感じられた。
「薬も飲めよ。ホーラあまーいぞー」
「……俺、これ嫌いなんだけど」
子供用のシロップ薬を渡され、軍艦は顔を顰めた。
甘いものは不得手ではないがあの鼻にくる甘さは駄目だ。それなら苦い方がまだましだ。
「ちゃんとお前の年齢の分、量ってやったんだぞ。ちょっぴりだからホラーいっきいっき」
「いやムリだし、やだ」
「飲め」
「やだ」
「飲めー」
「…やだ」
「オラ!」
「ぶッ!」
拒否したというのに、無理矢理注ぎ込まれた。
慌ててスポーツドリンクの余りで口直しをする。
それでも風味は残った。
「…さいあくだ」
「だからさっさと一気しときゃ良かったろ」
「だいいち寝てろなんて言うから、ホントにだるくなってきたじゃないか…」
ドリンクは美味いが薬は不味く、ボーボボはうるさい。
こうして寝込んだところで、他所者の自分のところへ見舞いに来る物好きなど彼ぐらいだ。
ベーベベが付いてくるのはボーボボを(いじめながら)可愛がる所以だと思われる。
気まぐれを起こせば破天荒も来てくれるかも解らないが、彼のことはどうもよく知れない。
最近も少し様子がおかしい。そう、ベーベベが猫になったあの日から、無口なりに妙にきらめいている。
あの謎の化け物に何か見出しでもしたのだろうか。
彼はきっと将来、常人では計れないようなぶっ飛んだことをする男になるに違いない。
きっとそうだ。
そうに決めた。
「バッカ、そりゃ熱が上がってんだよ。トレーニングなんかしてたらブッ倒れてたぞ」
「…そんなこと」
何ゆえか、ボーボボは常々うるさかった。
鼻毛真拳の継承者候補同士。身近だが、他人でありライバルだ。
人の良いことだと思う。
うざったくは、ない。
だがしかし強引だ。
彼はきっと将来、周りの人間を巻き込んで引っ張り上げていくような男になるだろう。
「さて、じゃあ蟹缶食おうぜ」
「ニャァー」
「え、消化にいいか確認しろって?えーと…えー………なあ軍艦、どっちだろ」
そして俺はそんな奴を超える男になるのだ。
「…はは。知らね−」
「バカッお前のことだぞ!一緒に考えまくれよ」
「俺の熱、上げる気か?」
そうに決めた。
だから俺の熱が下がるまで待ってろ、ボーボボ。
そう考えながら五日ほど過ごしたあたりで、
部屋で寝ていろと隊長命令が下された。
咳などはあまり出ていなかったのに、彼がどうして気付いたのかは解らない。
うがいをすること、水分を摂ること、首まで布団を被って寝ること。
あのひとときたら幼児でも相手にしているかの様だ。
ここ数日特に問題を起こした覚えも無いというのに、必要以上に心配をする。
それでも隊長命令とまで言われては拒否するまいが、
彼をひとり放っておくことの方が余程心配だ。
気にしないで、気付かないふりをしていてくれれば良いのに。
そうすれば彼に必要だと思われることは全てこなす。
出会ってから暫く、世話好きになったものだ。
眠ろうとしても眠気がこない。
「…カツ?寝てるか?」
遠慮がちな呼び声に、反射的に飛び起きる程度には。
「これ、薬な」
「…スミマセン」
「粉薬でもちゃんと飲むんだぞ」
「飲めますよ」
本気で言っているのか冗談で言っているのか、天の助は片腕の紙袋を振った。
「あとお粥…あ、わ、うぉっ」
「ちょ、隊長!」
「……ふぅ」
「…気を付けてください」
椀は袋とは勝手が違う。危うく零しそうになったところを、どうにか免れたらしい。
これだから放っておく気になれないというのだ。
「悪ぃ」
「おちおち寝ていられませんね」
「そんなこと言わずに、まあ寝てろよ。ほらほら」
「……了解。わかりましたから」
天の助は椀と袋を机に置くと、カツを急かして押し込んだ。
「うつりませんか」
「それは心配ないな。なぜならバカだから」
「…自分で言うことないでしょう」
かちゃかちゃと改めて椀を取る。
そして渡してくるかと思えば、一匙すくいあげて見せた。
「あーん」
「…………」
「あーんしてー」
気の抜けた口調で要求されても、
どうしたものか。
カツは黙ったまま動かなかった。
「どした?猫舌か?」
「…その…自分で食えますが」
「えぇー。こういう時ってこうするものじゃなーい」
声と肩のあたりとで、しなを作る天の助。
拒否したいのではない。
「…ですが」
ないが。
「子供みたいで…なんだか恥ずかしいですね」
だというのに、天の助の動作はやけに自然だ。
言いながらカツは思わずふっと笑った。
「当然よぉ。あんた達アタシのかわいい息子だもの」
返された仕草に吹き出しそうになる。
「…達、ですか」
「そうよ」
「…息子、ですか?」
「そーよ」
視線はカツから離されず、ぱちぱちと瞬いた。
「今はそういうことにしておきますか」
「あら何よ」
たまに自分より歳上だというのを疑う。そんな彼をやはりどうにも、
放っておけないでいる。
「…じゃあ、頂きますね」
「まあ、いいこいいこ……あ」
「なんですか?」
「両手が塞がってるからなでなでできねーや」
「…じゃあ、後でしてください」
「マジで?ノリよくなってきたなー、お前。超えらい」
素に戻って褒め讃えながら、天の助の手が再び匙を差し出してくる。
カツは黙って今度こそそれを受けた。
風邪は伝染しなかったが、
今度はスープを作ろうとした天の助が湯をかぶって溶けかけたというのは、また別の話。
「おい、なんだよ?お前」
無言。
「無視するんじゃねーよ。どうしたんだお前」
無言。余計に引き攣る。
「おいコラ、はて……」
「風邪で声がでねーんだってさ」
背後を通りかかった天の助から答が来た。
三秒ほどのち、気が付いたら背後で破天荒が天の助を追いかけ回していた。
たぶん八つ当たりだろう。
「なんかね」
天の助と同様に事情を知っているらしいビュティが言うには、こういうことだ。
ヘッポコ丸は知らずにいたが、昨日昼頃から彼は風邪気味だったらしい。
首領パッチの側で騒いでいる姿しか思い出せなかったが、たまたまそんな様子も見せたそうだ。
それでも平気そうな顔をしていたので天の助もビュティも特に何も言わなかった。
が、今日になって起床した破天荒の様子が何やらおかしい。
首領パッチに挨拶をしようとして声が出なかったらしいのが始まりだ。
挑み、挑み、挑み、焦り、諦めず、頭を抱え、転げ回る勢いで落ち込んだのだそうだ。
「首領パッチ君におはようって言えなかったのがよっぽど悔しかったんだねえ…」
「うーん…」
朝だというのに夕陽が沈んだ様な気分になりながら、ビュティとヘッポコ丸は彼の方を見た。
天の助を捕まえそびれた破天荒は、また本来の問題に戻って落ち込んでいた。
一時間ほど後、一行を離れて破天荒は木の幹に背を預けていた。
昼頃にはここを離れることになるだろう。
声が出るようになるのは何時かというと、見当もつかない。
朝起きて開口一番に首領パッチへの挨拶をするのは破天荒の日課だった。
そして敬いを込めて彼を呼び、彼を追い、彼と走るのが日々であるというのに。
おやびんとすら声に出せないのはあまりにも辛過ぎる。
おやびん。おやびん。おやびん。おやびん。
心の中で反復しようと、喉から出てくるのは掠れた空気だけだ。
首領パッチとの間に大きな壁が出来てしまったような気がしてくる。
声の出ない自分を見ながら訝しげな表情をする首領パッチを、思い出す度に溜息が漏れた。
息をしてすら喉が痛い。だがそんな痛みも今の彼には無いに等しかった。
ああ、おやびん。
すみませんおやびん。おやびん。おやびん、おやびん、おやびんおやび
「ヘイお待ちィ!」
破天荒の元にピザ屋が到着した。
「……、…!!!」
ぱくぱくと口を動かしながら、立ち上がり目を見開く。
バイクに乗って現れたのは首領パッチだった。
「呼んだかい、兄ちゃん」
「…!!」
よびました。
よびましたとも。
言葉にならないのに気付いてこくこく頷くと、首領パッチも頷いてからバイクをしまった。
どこかにしまった。
どこにしまったか、それは首領パッチと破天荒にとっては疑問ですらないので置いておく。
「やっぱり」
「……」
「俺を呼んだな、破天荒」
首領パッチの不敵な笑みは、神にも等しく見えた。
呼びたくても呼べなかったのだ。
呼んでいるつもりでいて、外に出せないだけで溢れるほど呼び続けていて、
だとしても届かないのだと思っていた。
「……」
聞こえるんですか、
おやびん。
「ちゃんと聞こえてるぜ」
彼にとってはもう、それが例え偶然でも何ひとつ歪むことはない。
「……!!!!!」
「どわっ!」
叫びの代わりに表情を思うさま崩して、破天荒は首領パッチに飛びついた。
バランスを失いそうになりながら首領パッチは踏ん張る。
「わ、わ、わ、輪ー」
「…!…!!」
一方破天荒はほぼ何も目に入らなくなりかけていた。
聞こえるんですね。
聞こえるんですね、おやびん。
あなたに俺の声は、ちゃんと届いているんですね。
「お前はすっげぇうるせーからなぁ」
すみません、おやびん。
「でもま、世の中にはそんなヤツが必要なんだな」
光栄です、おやびん。
「俺に風邪うつすなよ」
ああ、おやびんごめんなさい、つい。
「お前の風邪も早く治せよ」
おやびん、おやびん、おやびん。
「おーい、聞いてんのかぁ?」
はい。
あなたの優しい言葉が、
ちゃんと俺に、
聞こえています。
「おーい、デコッパチが戻ってきたぞー」
天の助の声に、田楽マンとソフトンとトランプをしていたヘッポコ丸は振り返った。
「どこ行ってたんだ?あいつ」
なぜか首領パッチを背負っている。そして首領パッチは爆睡していた。
(そういえばあいつも消えてたっけ…)
そして今にも空に舞いそうな破天荒は確か風邪ではなかったのだろうか。
やはり昨日からそんな様子があったとは思えなかった。
ついでに言えば、先程の引き攣った様子も微塵も残っていない。
「ぐおっ!ババがきた!」
横にいる田楽マンの関心はババに集中していた。
そういえばジョーカーを持っていたのは自分だったか、とヘッポコ丸は今更気付く。
カードを差し出したまま振り返ってしまったのだった。
「うぅ…ソフトン、早くババをひくのらー」
「指定されてもな」
ソフトンの困った様な声も響いた。
「ぐー…ぐー……グミくれよー…」
「………」
次の街に着いたら買ってあげますね、おやびん。
「破天荒さん、めちゃくちゃ機嫌直ったねー」
「わ」
更に気付けば横にはビュティが立っている。
「ついでに治りも早いだろうな」
続ける様に言ったのは、いつの間にか田楽マンのカードを覗き込んでいるボーボボだ。
「なんで?」
「特効薬を貸してやったからな」
ビュティに答えて、更に続ける。
「だがしかしあくまで貸してやっただけだ。そしていいかソフトン、この中でババは…」
「テメー!言ってんじゃないのら!」
「ならば俺が言おう。この中でババは…」
「田楽パーンチ!」
「ギャー!」
「ああっ、ノブオー!」
割り込んで吹っ飛ばされた天の助と何故か泣き叫ぶボーボボを見ながら、ソフトンは溜息をついた。
「…まあ、元気なのは結構なことだな」
「ソフトン様、頑張って!」
そして魚雷ガールの声援を受け、田楽マンのカードの束から一枚を引くのだった。
気持ちの特効薬が在るのは幸せな日常であろうと、
なんとなくそんな風に休息の時は流れていく。