「…風邪?」
顔を合わせるならば必ずと言っていいほど決まった場所であった彼女らと、何故か通路ですれ違った。
妙だとは言わなくとも珍しいと、問えば聞き慣れぬ言葉が返ってくる。
「御気分が悪いからって。眠ってらっしゃるわ」
「きちんと休んだ方がいいと思うんだけど」
龍牙は小さく肩を竦めた。
報告を片手に向かったところで、彼自身に聞く気が無ければどうしたものか。
「御機嫌も悪いって?」
「さあ、どれだけだか?」
「あんまり損ねたら酷いかもね」
あんまり。その度合いが知れる程度、解り易い男ではない。
勝手にくすくす笑ってくれる彼女らは、間を置いてまた様子を見に戻るつもりだろうか。
何にしろ滅多に見ぬ状況ではあるに違いない。
「ギガ様がお一人でいたいなら仕方ないけど」
「寂しいわよね。……あんたはどうするの?」
どうすると言われても、実は迷うまでもない。
帝王と接するに己より慣れたものであろう二人の女性は、また軽く笑ってくれた。
彼はあまり側に人を置きたがらなかった。
警備も何も、彼にとって邪魔にならない位置までしか許さない。
彼女らは例外だ。側に置いているのにもそれなりの意味があるのだろうが、語られることではない。
そしてある意味、己も例外の枠の中に入る。
側に寄れる程度には、だ。例えば彼という存在を理解するには程遠い。
「…ギガ様?」
兎に角は取り次ぎなど任せる相手もなく、この足で直に向かうしかなかった。
そして意外にも彼は、あっさりと侵入を許した。
眠っている様子はない。否、眠ってはいたのかも知れない。
浅かったのか自分がこうして尋ねていたのが原因か、ひとまず龍牙は本来の目的を優先させた。
彼もそれを望むなり待つなりしていたのだろう。
でなければ何を許す。
「………あの」
らしくなく、龍牙は第一声にも戸惑った。
特におかしい点はない無言かつ無表情の帝王。強いて言えば、それが妙だ。
「……」
与えられる言葉もない。
komomo達も冗談で彼を病人になどすまいが、ならばどう接するべきだろうか。
視線を泳がせそうになりながら考えていると帝王の指が動いた。
「………」
掌を上に、二度流す。
言わんとしていることは解った。
来い。
そう命じている。
「…ギガ様」
断言することが出来るほど、その態度は堂々としていた。有無も言わせまい。
言えまい。
「失礼、します」
何が待つかは知らねど、龍牙は彼に向け歩みを進めた。
見下ろすまでには上がって行けなかった。
ややきつく整った顔立ちは、その目線だけでも十分な貫禄を孕む。
それが己にだけ向けられている。
己にのみ、向けられているのだ。
ぞくり、と背中を撫でる何かを感じながら視線を返す。
そこまででは留まらなかった。
ギガの瞳が命じ続ける。
「……」
来い。
「……」
もっと側に。
「………」
目の前まで、上がって来い。
「………」
早くしろ、
許してやるよ。
龍牙の足は、互いの無言の破られぬ内に更に動いた。
「…ギガ様」
ややきつく整った顔立ちは十分な貫禄を孕むが、それだけではない。
「声、出ないんですね?」
話す時だろうが高笑いする時だろうが、こうして黙っていても常に付きまとう『それ』は、
己を捉え離さない。
「……嫌でも、休んでくださいよ」
例えば今こうして見せてくる、どこか拗ねた様な表情にも。
「俺にはJやら詩人やらみたいに気の利いたことは言えねぇんで」
連中には敬い方の足りぬと叱られる、そんな言葉遣いに返される無言のうえの動作にも。
心臓を撫で上げる『それ』が離れない。
いっそ色香と呼んで笑うまい。
身を寄りかからせてくる帝王から、畏れ多いと離れる気にもさせないのだから。
「………」
「いますよ、ここに」
邪魔が入らない限りは、否、入ったとしても。
彼の命であるならば、それこそ逆らうことはない。
それが彼であるゆえに。
「寝るならどうぞ」
あんた本当に帝王だなと笑いながら、
俺はここで気持ちだけでもあなたを捕えておきますから。
視線までにも持てる力の真に帝王である彼は、しかし無邪気な眠り顔を己に晒す。
伝染されようが構わない。
話に聞いてもここに来た。
結局は、彼が彼であるために。
確かに元から綺麗だよなって思ってたし、
こんなに伸ばしてるのにどんな手入れしてんだろって思ってたし、
ちょっとした跳ね具合が結構似合ってるよななんて思ってた、
けど。
なんだろうな、今日は特にこう、眩しいくらいに見えるわけだ。
結ったりしなくても邪魔になんかならないらしい長い髪の毛。
お前の銀髪。
「パナぁ」
足に紐一本括り付けた『処刑の体勢』で、ソニックは同僚に声をかけた。
四六時中そうしているというわけではない。今日の分の処刑なら先程終えた。
ただ、こうしている方が落ち着くだけだ。
あまり続けていると気が遠くなってはくるが。
「なんだ、ソニック」
柔らかく答えたパナは相変わらず笑顔が様になっている。
その笑顔が怖いのだという声も少なくはなかった。確かにパナは仕事に手は抜かない。
それでも、プライベートではなかなかに気のいい男だ。
「パナは今終わったとこか?」
「ああ。ソニックは」
「俺もさっき」
「…で、それからずっと逆さ吊りのまま?」
「そう」
パナは車輪を休ませて、今は足の方で身を支えていた。
「今日はなー、いい日だからさ」
「なぜ?」
「絶望君がノコギリ持ち出さないし」
「へぇ」
「スーパーラビットがなんていうか、緊張感もっててくれたし」
「なるほど」
「それになんかなー、お前の髪の毛…」
「…俺?」
逆さ吊りのままふらりと手を伸ばして、ソニックはパナの肩の上に手を通した。
髪に触れる。
さらりとした感触が指先を撫でる。
気持ちいい。
「…なんか、すげぇきれーだし……」
「…ソニック?」
続けて動いたのはパナの方だった。
伸ばされたソニックの手を取り、軽く握る。
そのまま距離を縮める様にして一歩前へと進む。
軽く腰を折れば視線が同じ高さに並んだ。
ソニックの顔を覗き込む。すると彼もふわりと笑い返した。
額と額が、触れる。
「そんなに俺の髪の毛が綺麗に見えるか?」
「…んー。顔も」
目前に迫る整った顔立ち。
日々に増して輝いて見える。本当に。
「つめたくて、きもちい……」
「…ソニック、それはな」
パナが何ごとかを、なぜか複雑そうに呟いた。
しかし残念ながらその声は、わんわんという別の音と混じって消えていってしまった。
世界がちかちかと輝いて虹色になっていく。
もう少し明るければいいのに、
パナの顔、見えないじゃないか。
「それはお前に熱があるからだ」
言った時には遅かった。
逆さ吊りのまま、ソニックは意識を失ってしまった。
「…あー、こりゃひどい」
改めて、その額の熱いこと。これで処刑をやり遂げたというならそれは立派なことだろう。
と言いたいところだが、こんな状態になるまで気付かないというのは褒められるべきことではない。
普段から頭に血が上るまで無理をするものだから、こういう時に困ったことになるのだ。
彼の部下連中も様子がおかしいことには気付いたのだろうか。
可愛らしいぐらい、困った男だ。
たまには悪くないかも知れないけれど。
誰もいないのをいいことに、紐を外してソニックの体をひょいと担ぎ上げる。
別にどこかに攫おうというわけではない。部屋まで連れて帰ってやるだけだ。
他の連中に知れたら煩くなるから、このまま誰にも見られない内に。
「…できれば今度は、素面の時に褒めてほしいんだけどな」
背中の重みは弱々しく、しっかり繋ぎ止めておかなくては心許ない。
それでも滅多に見れない彼の仕草の数々を思えば、パナにとっては満更でもない展開だった。
よくは解らないけれどとても気持ちのいいところにいる。
頬にあたる光が心地よい。
パナに背負われ愛しい銀髪に触れながら、眠るソニックは幸せそうに笑った。