適度な激務がかえって健康を保ってくれているのか、
ハレルヤランドのスタッフは滅多に病気をしない。
それでも風邪ひきに対しては、早く治せとのお達しと共にそれなりの休暇が出た。
「兄者ー、ただいま−」
半無声音を意識して囁きながら、慎重にノブをまわしてドアを閉める。
「皿は片付いたか?」
「ちゃんと厨房に預けてきたよ」
「うむ」
兄弟二人、そうしてひそひそと話すのには訳があった。
視界の内にあるベッドでは二番目の兄弟が寝込んでいる。
普通に歩けるからと張り切ってはいたが、今朝方には既に間違いなくやられていた。
滅多に体調を崩さない彼のことだ。心許なくもなる。
「メガファン兄者、どう?」
「よく眠っているが、まだ少し熱があるな…手拭を頼む」
「わかった」
洗面器と温い手拭いを受け取り、ビープは水道を探した。
この部屋の主はその二番目の兄、メガファンだ。ビープの部屋とは微妙に間取りが違う。
よく出入りしているとはいえ迷いがちにもなる。
メガファンが風邪をひいていると解った時、ビープは当然ながら狼狽えた。
彼自身がまったく問題なんてない、元気だと言い張るのでどうすればいいか解らなかった。
しかし上の兄の覇王が許さず、さっさとハレクラニに届けを出して寝ていろと命令したのである。
次兄のメガファンも長兄には弱い。
部下の看病や医務室行きは断ったが、今日一日は大人しく部屋で留守番していたようだ。
先刻仕事帰りに彼の部屋へ立ち寄り、雑談混じりに薬も飲ませて彼が寝入るのを見届けたところだった。
「はい、タオル」
長兄の物言いでは手拭だが、つまりはタオルだ。
冷水で濡らしてよく絞ったものをメガファンの額に乗せる。
長引く熱にはお約束だ。明日になっても下がらなかったら氷嚢を用意すべきかも知れないが。
「兄者ぐっすりだね」
「いいことだ」
「うん」
実力を比べてもヘル・キラーズ一である長兄は、タオルを替える動作もさまになる。
ビープにとってもメガファンにとっても自慢の兄だ。
彼に休めと言われては、メガファンとて逆らえない。
「果物とか冷蔵庫に入れなくていいの?」
「病人が食うのなら冷えすぎてはよくあるまいよ。棚でいい」
「ペットボトルは」
「半分は冷やすか」
そこまで酷い病状ではないが、確かに風邪ひきの水分補給は室温でというのも聞く話だ。
果物はガルベルの見舞いで、適当に買ったものだがと先程訪ねてきて置いていった。
薬はT-500が調達してくれたものだった。
飲ませすぎもよくないというが、彼の判断ならば信用して間違いはあるまい。
水分補給にいいだろうとスポーツドリンクを持ってきたのはカネマールとナイトメアだった。
彼らは一緒にメガファンの粥と、どうせここにいるのだろうと他二人の夕食まで運んでくれたのだった。
それぞれに礼を言って、当然ながら皿の片付けは自分たちでする。
寝てしまったメガファンのことは覇王に任せてビープが引き受けた。
メガファンに何かあった時、自分がいるより覇王がいた方がいい。
その方が何の心配もない。
メガファンの寝顔が穏やかなのに、ビープは安堵した。
「…覇王兄者、かっこいいなぁ…」
「なんだ、いきなり」
「だってかっこいいじゃないか」
そんな台詞を何度だって繰り返す。
普段ならば自分の言葉の後に、メガファンが当たり前だろと続けるのだ。
兄者は格好いい。
ビープやメガファンが今より力の無かった頃、その時から守ってくれたのは覇王だった。
ハレクラニからも信頼を受けている。
ビープは覇王のことが大好きであったし、メガファンのことも、
特に目を輝かせて覇王を讃える姿はとても幸せそうで好きだった。
「ビープよ。風邪をもらわんようにな」
「大丈夫だよ。覇王兄者もね」
「儂は鍛えているからな、そんなものは跳ね返してやれるのだ」
「じゃあ僕も大丈夫」
マスクを取るとどうにも素が出てか、弱く見えるらしいのは悩みの種だった。
だがビープとて無駄に日々を過ごしているのではない。
メガファンが風邪をひいたのも、たまたまのことだろう。
長兄も次兄も己も、幼い頃と比べたならば何倍も強くなった。
共にいられたからと言って間違いはない。
覇王に憧れ、メガファンと自分とは高め合った。
ゆえに幼い頃から何より感じてきた不安は、覇王の背が見えぬようになることだった。
ふと目を離すといなくなってしまうのではないかと感じる。
ハレルヤランドに来て暫くは、メガファンと二人して必要以上にくっついてまわったものだ。
安定した居場所を自分らに与えて、兄だけ消えてしまうのではないかと感じていた。
長兄のことを信用していないのとは違う。
彼は元より、どこかそういう強さのある男だった。
「…大丈夫」
「そうか。それならよし」
「うん。けどさ」
覇王の様な男の中の男になりたいと思うビープではあるが、
こうしてマスクを外して兄達と自分だけになるとどうしても甘え癖が出てきてしまう。
恥ずかしいと感じたこともあったが、今はそれでもいいものと思っていた。
兄達がそれを許してくれるのならば。
「兄者達が突然いなくなっちゃったりしたら、それはやだなぁ…」
「随分と飛躍させるな」
「だって、それだけはどうしてもやだ」
主張に遠慮はしない。
メガファンはそれを恥ずかしがるが、自分はこうして示しておこう。
「他のことならさ、兄者達と一緒だったら我慢できるよ」
「我慢というよりは耐えるというのだ」
「胸を張れって?」
「そうだ」
「じゃあ兄者、ちゃんと見ててね」
いつか並んで歩ける日を目指すから、どうか何も言わずに消えてくれるなと。
「…やれやれ。我が末弟ときたらいつまでも甘えん坊よ」
「いいじゃない、時々なら」
そうやって肩を竦めて呆れてくれるのも嬉しい。
眠りの深いメガファンが、小さく笑った様にも思えた。
次兄とて立派に甘えん坊なのだ。
自分のことを甘えさせてくれるが、実は長兄に甘えたがっているのをビープは知っている。
今朝覇王が軽い風邪とて甘く見るなと叱ってくれたのも、内心では嬉しかったことだろう。
彼は自分からはなかなか甘えない。
それはそれで、上手くバランスが取れているのだけれど。
「明日には元気になってるといいね、メガファン兄者」
「なっているだろう」
「ほんと?」
「そうでなくては困るからな」
「覇王兄者は厳しいや」
「長兄というのはそういうものだ」
「えー」
厳しくて優しい兄と、不器用で優しい兄と、
口には出さないが配慮をしてくれる上司と、気遣いをしてくれる同僚とを持って、
自分はきっと恵まれているのだろう。
だからこそ甘える時には甘えて、精一杯をしながら幸せに向かい続けることにする。
遠慮しがちな指摘に、ランバダは浅く首を傾げた。
医者にかかった覚えもない。
「どうしてそうなる」
「あの、顔色が」
確かめようにも、残念ながら鏡の類は見当たらなかった。
「そんなに…悪いか」
「ぼんやりしませんか?」
「……まさか」
まさか、
いや、そんな気もしないでもない。
まさかと思えば立ってもいられるが、そんな気がすると思うと、
「………っ」
くらり。
脳の内を押される様な感覚に伴い、世界が揺れた。
「や、やっぱりっ」
少女は慌てて、こちらに一歩踏み出した。
どうも彼女からすれば己は病人に見えるらしい。
いや実際にそうであり、気付きそこねたままでいた。
後で突然倒れでもするのとどちらがマシだったろうか、
そんな風に考えてしまう程度に頭の内ががんがんと鳴り響く。
「な…なさけない……」
思わず呟いた時には少女、レムに体を支えられていた。
増々情けなかった。
「少し休んでいきましょう、ランバダ様」
「……あぁ」
「立てるくらいになったら…いえ、何にしろお部屋までお運びしますから」
彼女が好意で頑張っているのが解ると、それだけ言葉もなかった。
辺りに人影はない。
己の時間も浪費しているが、彼女の時間も奪ってしまっている。借を作るのは苦手だ。
「…すまん」
「そんな、お気になさらないでください。ランバダ様らしくもない」
「…そうか?」
そういえば、礼を言うのも得意ではなかった。
レムは困った様に首を傾げる。
己を支えて座らせて、気を遣ってくれるぐらいには強い少女だ。
少女といっても年齢はランバダより上だった。身長も高い。
いよいよ情けなくなりながら、固い壁に身を任す。
頭が圧迫されている様にも感じるが、浮かせているよりましだ。
「………」
「…風邪くらい、どんなに強い人だってひきますよ。バカならひかないなんてよく言うけど」
あれは迷信でしたっけ。
呟いてから、彼女は黙った。
「…いいのか?」
「え?」
「俺はいつ立ち上がるか解らないぞ」
「場所が場所ですけど、楽になられるまで…」
「そうじゃない」
「あ…お邪魔でしたか」
「…それも違う」
誰かしらと組むより単独を選びがちなランバダにとって、それは馴染みのない感覚だ。
「待っているのは、苦痛じゃないのか?」
眠りの世界に沈むのでもなく。
「だって」
痛みの幾らか治まった己を覗き込む様に、レムの視線が向けられる。
「ちゃんとここにいらっしゃるのに、不安や苦痛なんて」
「…ここに?」
「…ランバダ様は、ここにいらっしゃいます」
言い切ってから、些か慌てた様に前を向き直した。
「…それよりもランバダ様のお風邪の方が不安ですよ」
「人ごとなのにな」
「わ、笑わなくたっていいでしょう。人ごとだから不安なんです」
「なら、俺はここにいていいのか?」
「もちろん、私だってお邪魔じゃなければ…子守唄でも歌えたらいいんですけどね」
「歌わないのか」
「…え、あっ…その、自信なくて」
まさかそう返されるとは思っていなかったらしい。
しゅんとなるレムの横顔を、ランバダは半ばぼうっとしたまま見ていた。
不思議と頭の痛みは去りかけている。
話している内に忘れてしまった。
「…まあ、なくても眠れるな」
「…ですよね」
「代わりは必要だ」
「……へ?」
「肩を貸せ」
驚いた様にまたこちらを向いてきたレムを見て、笑ってから目を閉じる。
彼女が貸すと言うのならば借りておく手もあると思った、それだけだ。
ゆっくりと身を任せると、身長のためか腕に寄りかかる形になった。
やや気に入らない現実だがそれもいっそ構わない。
うとうとと沈みながら、ランバダはここにいる彼女に暫し甘えることにした。
借りたのならば何時か返す。
己は優しさも得手としないがために、それは彼女に危機が訪れた日となるだろう。
ただ、本当はそんな瞬間など来ない方がいいのだと、
らしくなくそう感じてもいる。
優しさは得手ではない。とはいえ正しくは、言葉にするのが不得手なのだった。
情けないと言い換えた恥ずかしさも、痛みの消えた感覚と共に眠る。
己でも不思議なほどに穏やかだった。