ふわふわと、空を飛んでいた。
いや、空なのかは解らない。ぼやけた視界は思うように情報を与えてはくれない。
身体が浮き上がり、静かな波に繰り返し揺さぶられているように感じる。
息苦しさはない。
程よく温かで、心地よい。
ここが何処なのか、どうなっているのかが自覚できなくとも、いつまでもここに揺られていたいとすら思った。その時、目の前に何かが見えだした。
少しずつ近付いていく。文字が列を作っている。
酷く懐かしく、酷く身近で、先ほどのような温もりはないが心が踊る。
それを本だと理解するのと近付きすぎたそれが顔面に接触するのとは、ほぼ同時だった。
幸せな時間
「…!?」
見開いた瞳に空気の冷たさを感じて、詩人は目を覚ました。
天井が見える。全身の動きが鈍く、意識だけ妙にはっきりしている。
(…寝てたのか)
当たり前といえば当たり前のことだが、眠ろうとして眠ったのではない。
己が体を横たえるソファの文字、積み上げられた本、飲みかけのまますっかり冷めてしまったコーヒーのカップ。視線を滑らせながら現状を把握する。
すぐ下を見ると、一冊の本が不自然な形で落ちていた。
「ん…?」
山が崩れたわけでもないし、風で飛んだならばもっと大惨事になっているだろう。
「なんで、ここに…」
どこかぼんやりとした声で呟く。
「そりゃ俺が投げたからだ」
ああ、そうか。
誰かが答えを教えてくれた。
誰かが。詩人は跳ね起きてその誰かの方を向き、今度こそ全身で覚醒せざるを得なくなった。
「ギギギギガ様、な、な何でここに…」
「どもってんじゃねェよバーカ」見苦しい寝癖などついていないだろうか、態度や口調がしっかりしているだろうか。
それらを気にする余裕は、今の詩人にはなかった。
ここにいるはずのない男が、そもそも来るはずもない男が、何故平然とこうしてここに自分の近くにいるのだろうか。
思考はそれを考えるのにフル稼働し、表情も体勢もそのまま固まっている。
「バカ面」
「…え、あ、あ」
「ツラ見てやろうと来てやってみりゃ寝てやがる。バカじゃんお前」
「も、申し訳ありません!……あの、何でまたここに…」
ここというのは詩人の私室、処刑場の隣である。ギガが王座を離れて誰かの部屋に来ることなど前例がない。処刑場の様子をいちいち確認することすらありえないというのに。
「別に」
ギガはケッと笑い飛ばして、その辺りに転がっていた本を蹴飛ばした。
「ヒマつぶし」
「…ヒマつぶしって」
その言葉の続きを聞かずに、ギガは本棚の方に目を向けた。
「テメー、よく飽きねぇな。こんなんばっかりで」
身近な場所から身近な場所を見ているその姿は、もっと違う風に見えるものなのかと思っていた。
それは違った。帝王は帝王だ。
偉大で、強大で、途方もなく遠い。
そんな彼が先ほどまで自分が居眠りしていた部屋にいると思うと、恥ずかしさか違うものか身体中が熱くなる。
「…ギガ様。ここは散らかってますから、処刑場の逆隣の部屋に」
「あァ?」
不機嫌そうな声に、思わず一瞬硬直する。帝王が指図されることを好むはずがない。それは解っていたし、指図したつもりもなかったのだが。
「僕に何か…御命令とかがあっていらしたんですよね?でしたら」
「フン。そんなに別の部屋に行ってほしいなら」
ギガは口の端を吊り上げて、笑った。
「引っ張ってけよ。テメーの腕で」
「ええ!?」
詩人は目を見開いて、ギガを見た。
そんな事ができるわけがない。
この手で?
あなたを?
引っ張って行く?
「ご、ご冗談を」
「言うかンなつまんねー冗談」
しかしその様子は変わらない。それどころか、その先の言葉もない。
(どうしろって…そんな)
普段ならばギガが来いと命じて、始めて側に行くことが許されると思う。
稀に、本当に珍しいことだがギガがこちらに来るのならば、黙ってそれを待つだけだ。
詩人は迷ったが、ひとまずそこから動かずにはいられなかった。
ふらふらと立ち上がり、危ない足取りで近付いて行く。
ギガとの距離が少しずつ、本当に少しずつ縮まっていく。
「…トロい。嫌ならすんじゃねえよ、命令じゃないんだぜ」
その言葉に身が震えたが、今更立ち止まって戻ることもできなかった。
どうにかギガの近くまで、手を伸ばせば触れることのできる場所まで来て、詩人の足は止まった。そこからどうしていいか解らなくなったのだ。
暫し沈黙が続く。
「…ケッ。まあいい」
ギガは小さく溜息を吐くと、詩人を見下ろした。
恥ずかしくなった。彼の望むようにやれなかったことが。
「す、すみま…」
「言っただろーが、命令じゃねェンだとよ」
ああ、確かにそうは言われたけれど。
「…その代わり答えろ」
その少し低い声に、顔を上げる。
「は、はい」
ギガが己に問うようなことがあるのなら、どんな事でも答えてしまいたい。
それが自分に解ることならば、何でも。
「テメェにとって、一番幸せな時間は何だ」
「え…」
その問いというのは、詩人の想像とは違っていた。
そもそもギガがその様なことを尋ねてくるとも思ったことはなかった。
だが答えぬわけにはいかない、はい、とこの口で言ったのだから。
幸せな時間。
この部屋に閉じこもって本を読む。瞑想する。
処刑をする。
時に時間を忘れかける。眠り込んでしまう。
それらは自ら望んだ至福の時間。穏やかな幸せ。(…穏やかな、時間か)
それに限れば迷うことはない。
だが。
だが、痺れるほどの高揚感を伴った異なる種の幸せを知っている。
「…様と」
許され、与えられる時間。
「ギガ様と、二人きりでいる時が…、…!!」
口にまで出すつもりはなかったのに。
あわてて目を背ける。
「へぇ…」
その声は、楽しんでいるようにも怒りのようにも聞こえた。
少しずつ、今度は彼が近付いてくるのが解る。
「こっち向けや」
「!」
恐る恐る、自分の方を向いた詩人をギガは強引に引き寄せた。
「俺といるのが幸せなら、今はどうなんだ」
「今は…ここは、ギガ様には似合いません」
「言うねェ、テメーの部屋だぜ」
「僕の部屋だからこそ似合わないんです」
その言葉に、眉を顰める。
「…それでも追い出さねェんだな。俺の意思だからか、命令が無いからか…テメーは機械か、詩人よ」
「…そ、それは違います!」
詩人は慌てて首を振った。
「僕がギガ様にお仕えするのも従うのも、僕自身の意思です。こればかりはどうか…」
「チッ」
舌打ちひとつ、ギガは詩人を少しの間睨みつけたが、ふいに呟いた。
「俺と過ごす時間が幸せだっつったな」
「……は、はい」
「なら今、この先に何が欲しい」
「え…」肩を掴み、目線を合わせ、低い声色で問うたそれは、繰り返されることはなかったが逃げ道も用意されてはいなかった。
この先に、何が欲しいか。
自分の部屋にギガがいて、二人きり。手を伸ばせば届く距離にある。
だが望もうと、許されるものか。自ら帝王を掴もうとするなど。
しかし詩人は機械ではない。自らの意思で、ギガの側にいる。この先に欲しいものも、本当は知っている。
「…抱きしめて、くださいますか」
その答を理屈で出す前に、勝手に言葉が出た。
頼み言葉のそれは詩人の限界であり、ささやかで何より甘い願いであった。瞬間、詩人の身は暖かいものに包まれた。
それがギガの体であることを、彼が己の願いを叶えたのだと、気付くことには時間を要した。
詩人の知っているギガは焼けるように熱く壊すように力強い。
だが、痛みを伴うそれとは違ったその温もりは、
人のものだった。
帝王は帝王だ。間違いなく、己とは違う。
だがこの暖かさの、帝王の人たる温もりの、なんと心地の良いことか。
詩人は目を閉じてそれに身を任せることにした。
それは何故か懐かしく感じた。どれ程の時間が経ったか、ギガは詩人の体から腕を解いた。そして夢から冷めかけたような表情をする詩人を笑うように、呟いた。
「これから更に先が欲しけりゃ、俺のところに来てまた寄越せと言うんだな」
そして隣の部屋ではなく、出口へと向かう。詩人が言葉を発することのできる状態になる前に、その姿は扉の向こうへと消えた。
本だらけの部屋の中、硬直した詩人が残された。
最後の言葉の意味に、ここで己のしたことに急に恥ずかしさが込み上げて、体中が熱い。
その身が動くようになるまでは相当の時間を要した。
ふと、目が覚める瞬間に顔面にぶつかってきた本が目に留まった。
よく思い出してみれば眠りに沈むまではそれを読んでいたのだ。そんなことを考える余裕など先ほどまでありはしなかった。
今ですら危ういというのに。
何を考えることもなく、ただ体内に熱をとどめたまま、ゆっくりとそれに振れた。何でもいい、何かをしようとしなくては沸騰してしまいそうだった。
「…あ」
しかしそれは熱冷ましになるべきものではなかった。
本の形をしながら、本ではないもの。
「オブジェ…?」
本のはずがページをめくれない精巧なそれはオブジェと名の付くものとは違う。しかし間違いなく本であったはずのそれを人形のようにしてしまう技といえば、ギガのオブジェ真拳を思い出す。
体の中で再び沸き上がる熱を振り切るように、それを持ち上げる。
ギガ様がこの本をオブジェにした。
ならばギガ様が、眠りこける僕の顔にこれを投げつけたというのか?
テメェにとって、一番幸せな時間は何だ
そう言って、僕に触れたあの手で、この本を。
冷めるどころか余計に熱くなっていく体と思考は、それを思い出さずにはいられない。
ゆっくりと思い返す。噛み締める。その手は、普段触れてくる時と違った。
熱ではない。
冷たさでもない。
あの温もりを恐らく自分は今まで知らなかったはずだが、何故だろうか、どこか懐かしかった。
それは遠い記憶ではないように思えたのだ。
感じたのはどこだったか。
追い手繰れば全身がそれを覚えている気がする。
まるで包み込まれたかのような。
(…!…)
ああ、そうだ。
眠りながら感じていた穏やかで温かな波が、その温もりによく似ていた。
自分は、夢の中に身を任せながら既に包まれていたのだ。