五秒間



目を、見開いた。



そこは薄暗い部屋の中だった。
体があるのはベッドの中、全身に薄らと汗が滲んでいる。上を、左を、右を、最後に下を見て、起き上がったことで腰までずり落ちた薄手の毛布を確認し、やっと己が宿の部屋の中にいるのだという事実に頭が追いついた。
息が荒い。
心臓が唸るような鼓動を繰り返している。

そこからまた穏やかに眠りの世界まで流れていくことは出来なかった。
望まなくとも頭の中に蘇る。
現実はここにあるという安堵と共に、忘れるべき幻の記憶が呼び起こされる。

ヘッポコ丸は飛び起きたままの格好で、下半身にかかる毛布を握りしめた。


夢を、見たのだ。



真っ白い空間の中にいた。
真っ白といっても何も無いのではなく、そこには多くのものがあった。
これまで生きてきた十六年間、駆け抜けてきた沢山のこと。
恐らくその全てが在った。
全ての出来事があって、そこに自分がいる。
ひとつひとつを何と認識するにはあまりに虚ろだが、その白い空間を見ていると、喜びも悲しみも怒りも今までに感じてきた全てが己の中を駆け抜けていく様だった。
そこは冷たくも暖かくもなく、だが居心地は悪くない。
何故ならここは『自分』なのだから。

その時、全身に引き攣った感覚が走った。
痛みとは違う、機械的な力で引き延ばされる様な鈍い感覚。

そして同時に、目の前の空間が割れた。
すっぱりと綺麗に割れたのではない、残酷な程に巨大な一つの亀裂から、四方八方が砕け散っていく。
聴覚を埋める様な破壊音に耳を塞ごうとしたが手が動かない。
振り向こうとしたが首が動かない。
そして何かをしなくては、止めなくては、動かなくてはと思うのに足が動かない。
引き攣ったまま目を塞ぐことすら許されない身体を取り囲むように、音は鳴り響いた。

砕け散った場所を、見た。
望む前に強引に視界に入り込んできた。
そこには闇があった。
白の隙間から見えているだけなのに、あまりにも巨大な闇が、空虚な闇が、そこにあった。
それは突き進むかの様に広がっていく。
白は、先を争い砕けては散らばって薄れてゆく。

やめろ、それは俺だ!
俺の喜びも、悲しみや怒りだってそこにあるのに!
失ってはいけない、守らなくちゃいけない、どうして届かない!

そこにあるのは全てだった。
過去が、現在が、そしてどこかには未来があったかも知れない。
過去に何かを失った様に、現在の何かすら砕けていくというのか。
そしてこの身体は動かない。
結局何ができたわけでもなく、引き攣ったまま、動かない。

全てが消えてしまう前に、目の前は勝手に暗転した。



瞳を開くと、そこには現実があった。


頭が痛い。激しい痛みではない、疼く様なもどかしさ。
形容する術の無いその夢も、痛みも、とにかく笑い話にでも何にでもしてかき混ぜて誤魔化したくなった。
忘れることは出来そうにない。
忘れたくても忘れることの出来ないそれを心の内に仕舞っておくことに、耐えられそうにもない。
だからといって、そのまま表に出すようなことは出来はしない。
どうにかして。
誰かに。
すぐに、一人の相手が浮かんだ。

幾らか薄めて歪めた、ほんの小さな愚痴の様な話にして、同じ部屋で眠る男に聞かせればきっと笑い飛ばしてくれるだろう。

ヘッポコ丸は隣のベッドを見た。
もし起きていれば聞いてもらえるかも知れない。眠っているなら明日にでもして、どんな風に話そうか考えながら眠ればいい。
だが。

「…天、の助?」

眠る前に挨拶もしたはずの、眠っているはずの、同室の仲間の姿が無い。

「おい」

声を出せども返ってくることはない。
慌てて部屋中を見回して、寝相か何かのためにどこかに転がっていってしまっていないかも確かめた。

だが、いない。

いない。
いない。
どこを見てもその姿が。

「…な、んで」

過去に何かを失った様に、現在の何かすら砕けていくと。

(…まさか)

「天の助ッ!」

立ち上がって、掠れた声で叫ぶ。
それに被さる様に、がちゃりと音がした。

「…どーしたん?」

声のした方に、自然と体が向いた。
木でできたドアのノブを握ったまま、天の助が呆気にとられた顔をして部屋の入り口に突っ立っていた。

「…お前ッ、どこに…!」
「え、いや、隣…なんかあったのか?すげー形相だぞ」
ヘッポコ丸は反射的に頬に触れた。どんな形相なのか己では見えないが、汗で濡れているのは解る。
「…これは別に…隣ってお前」
問うと、天の助は胸を張った。
「おう、ボーボボのボーボボによるボーボボのための一人ボーボボ劇場に出演してたんだぜ。すげーだろ」
「へぇ…て、それ一人劇場じゃないだろ…?」
「…お前いつもに増してツッコミが冴えてねーなぁ。どーしたよ」
「わ、悪かったな、冴えてなくて!…大したことじゃないし、そんな」
不自然に荒れる息を飲み込みながらどうにか誤魔化してはみる。
天の助は暫く怪訝そうな表情をしていたが、結局は追求すまいといった感じで己のベッドに飛び乗った。
「あー、疲れた」
「…いいじゃないか、疲れるまでやらなくても」
俺がどれだけ。
いや、そもそもあんな夢のせいで。
もやもやと考えている内に、天の助が言い返してきた。
「いーんだ、夜だから」
「夜だと何がいいんだよ」
「どっかで聞いたけど、疲れてるほど悪い夢も見ないって言うぜ」
「…ふーん」


悪い、夢を。
そんなものは迷信だと、ヘッポコ丸は思う。

この体は今晩も間違いなく疲れている。
だがあの夢は、少なくとも己にだけは嘘はつくまい、
悪夢だ。
具体的なものではなかったが、己が崩れていくかの様なその光景に間違いなく追い詰められた。
夢というのは厄介だ。
どう抗えばいいかも、どう意地を張ればいいかすら解らない。
気が付いた時には過ぎ去っている。


「さて、俺はもー寝るぜ。ヘッポコ丸は…あー、さっきもう言ったっけ?おやすみな」
「…ちょっと目が覚めただけだ。俺もまた寝るから……おやすみ」

天の助が滑り込む様に毛布を被って丸まってしまうのを横目で見ながら、ヘッポコ丸は自分の毛布を引き寄せた。



この部屋の時計の針は音をたてない。宿が配慮してそうしているのだろうか、秒針は滑らかに回り規則的な音色を奏ではしない。
普段ならばむしろ有り難い。
だが、今は。

ヘッポコ丸は膝を腹に付けるようにして丸まった。
落ち着かない。眠れる気がしない。
天の助は身体中を捻ったままでも心地良さそうに眠るが、人間の体ではそんな風にはいかない。
普段は身体を伸ばして眠る。
今は、駄目だ。
体を伸ばして目を閉じれば闇に沈む。
そこには白い無数の欠片が舞っている。
幻でしかありえない、夢でしかありえない、壊されていったものの欠片。
暗示ですらありえない、笑い飛ばせば良いはずの、壊されていくものの欠片。

このまま全てが、己の全てが砕け散れば、そこに残るのは何か。

それは、空虚だ。永久の闇だ。
全てを失うのだから何も残るはずがない。
そんなことがあるはずが無いとは思う。
だがしかし目を閉じればそこには己の破片が見えるのだ。

(…ッくそ!)

それでも瞳を閉じねば眠れはしない。
瞳を閉じればそこには闇が。
夢というのは厄介だ。
気が付いた時には過ぎ去っている。

(…違う……!)

そんな不確かなものを跳ね返すことすらできないのだ。
縮こまって震えているだけのこんなにも非力な己は、
己の中に入り込むことを許してしまった悪夢の通り、
いつか全てを失って永久の闇に沈むのかも知れない。
この腕のみでは生まれ育ったあの街を守れなかった時の様に。
この腕のみでは仇ひとつ、討てなかった様に。

また何かを失い、いつかは底知れぬ闇の中へ。

「…嫌だ!」


その瞬間、全身に汗が吹き出した。


恐る恐る、現実に引き戻されながら、隣のベッドを見る。
天の助はヘッポコ丸とは反対の方を向いて眠っていた。

最初に、安堵した。
すぐに泣きたいほどに情けなくなった。
己の弱さが、迫り来るばかりの悪い予感が、様々なものが組み合わさって感情を締め付ける。

「…なあ」

唐突に、声が響いた。
それはヘッポコ丸のものではない。そして、この部屋の中には二人のみ。

「…ご、めん、天の助。起こしたか…?」
「や、俺もまだ寝てなかった」
「気にしないでくれ。…もう騒がないから」

「その前に、ちょっと頼んでいいか」

「…何、を?」

ヘッポコ丸は身を浅く起こしたまま、そして天の助は横になったまま、視線が合った。

「よく眠れるおまじないってのを、試してくれねーか」
「…へ?」
「かなり昔に聞いたのを思い出したんだけどさ」
「そんな、なんで…俺が。べ、別に眠れないってわけじゃ」
「俺じゃできねーんだよー。眠れないんでやってみようと思ったんだけどさあ…悔しいからお前が試してくれよー」
天の助にはできないという、おまじない。
何がどうしてできないのかは解らなかったが、どうやら頷かない内には納得してくれそうにない。
「…解ったよ。何すればいいんだ」
「手、開くんだと」
ヘッポコ丸は言われるがまま、右手を毛布から出して開いた。
「それでえーと、大事なものを思い浮かべる」
「…大事なもの?」
「何でもいいんだってよ。好きな食い物でも、気に入ってる場所でも、いい思い出でも、多ければ多いほどいい。てのひら見ながらな」
掌を、見る。握りしめていたためか、少し熱を持っている。
ゆっくりと頭の中に、大事なものと呼べる何かを思い浮かべていった。

大切なものなら幾らでもある。
人も、物も、思い出も、場所も、その全てはヘッポコ丸にとって大切なものであると同時に、自分自身でもある。
それが無くては己は成り立たない。
だからあの夢の中、己を取り巻く空間の中にもそれらが含まれていただろう。
守れなければ砕け散る。
あの、夢の中。

「…なあおい、余計なモンまで浮かべると効き目無くなるって話だぞ」
「わ、解ってる。その位」
「無理してまで考えなくてもいーんじゃん?そんな力むなよな」
「力んでなんか…ない」

ゆっくり思い返すそれらは、決して砕け散ってはならないもの。

「…考えたら?」
「そのまま考えながら、親指からゆっくり指を閉じる。……握りしめたら、そのまま五秒」

五秒。
心の中で数えたそれは長過ぎた気もしたが、天の助は口を挟んでこなかった。

「これで、その手の中に入れたモンがお守りになってよく眠れるんだとさ。五秒経ったら離していいんだぜ」
どうだとばかりに話す天の助を見ながら、ヘッポコ丸はゆっくり手を開いた。
ただ握っただけなのにそこに何かが在る気がする。手首が、重い。
考え過ぎだと思いながら、緩やかにその手を振ってみた。
「…どこで聞いたんだ?こんなの」
「んー…いつだったかなァ、スーパーにいた頃…たまにいたんだよな、珍しがって話しかけてくる子供が」
天の助は天井を見て、少し遠い目をする。
「そいつが俺に聞いたのさ、ところてんでも夢を見るのかって。だから豆腐の出てくる怖い夢を見るんだぜって教えてやった」
「笑われたろ、それ」
思わず自分まで笑いながら、ヘッポコ丸は返した。
「うっせー、俺にとっちゃマジなんだよ!…んで、聞いたんだ。母ちゃんが教えてくれたおまじないだとさ」
「それで、お前は……あ」
「俺のこの手じゃ、できねえんだよな。試してみるつっといたけどさ」
天の助が毛布から取り出した手がふらりと揺れる。
「まあその頃の俺にとっちゃ、ずっと待ってるのが生き方だったからな。そーやって何かを教えてくれる奴の言葉は嬉しくて、何だってホントだって思えたな」
「…そっか」
「でも、これだけは試せなかったんだなぁ。結局そいつとも二度は会えなかったしさ、明日になったらどーだったか教えてくれよ…んじゃ、今度こそ寝るか」
「天の助…」


呟いて、気付いた。
それは、本心の言葉だったのかも知れない。
しかしもしかすると、そんな昔話を理由にして気遣ってくれたのかもしれない。

先ほどまで強張っていた身体から力が抜けている。
自然に微笑んですらいる。
あんなに近くまで迫って来ていたあの悪夢が、まるで遠いところに行ってしまったかの様だ。

(……)

天の助には試せない、安らかな眠りのためのおまじない。
だがきっと彼は信じているのだろう。
それを今、この自分に。


「…天の助」
「んぁ?」
「手……さ、貸して、くれないか」
「手?」

ベッドから起き上がって腰掛ける。
そうして手を伸ばせば、隣のベッドは届く位置にある。
天の助は起き上がるのが億劫なのか、寝転んだまま片手を差し出した。

「何?」
「……」

ゆっくりと、触れて。
握りしめる。

「…おい、ヘッポコ丸?」
「大切な、もの」
「…へ?」
「い、いいから!思い浮かべる…んだろ」
「あ、ああ…」
「…いち。に…」
さん、し、ご。

五秒。


「…ヘッポコ丸」
「こ、これで天の助にも効くかもしれないだろ。その、おまじない」
「かも知れねえけど…お前、そっちの手でおまじないしたじゃんか。…もしかして今ので効かなくなったりしないのか?」
「へ?い、いや、知らないけどさ」
ヘッポコ丸にしてみればこれでも随分頑張ったというのに、天の助は己の手とヘッポコ丸の手を見比べながらも平然としている。
熱くなる頬を、拭うようにして隠しながらヘッポコ丸は目線を逸らした。
「ま、きっと大丈夫だな」
天の助はやはり動揺など見せず、笑った。
「そう、か?」
「だって一緒に旅してりゃ大切なモンにも似てるとこ、あるだろ?きっと」
「…あ」

そうだろうか。
そうかも知れない。
自分にとっての大切なもの、自分にとっての一部が、他の仲間や天の助にとっても大切なものであり一部であるのかも知れない。

「…そーだな。そうやって、明日の今も同じことしてるかもな」
「いや明日は野宿かも…じゃねえや、まあ、明日のことなんて今どうこう考えることでもないだろ。寝よ寝よ」
「……ああ」

明日のことは解らない。
守らなくてはならないものを失うかは、今の連続の果てに決まることだ。
それならば夢の中に見て苦しむ様なことでは、ない。

だから壊れることを怯えて見ているのではない。
誰かに縋るのでもない。
同じ様に大切なものを、共に守れる戦士になるために。
今よりも強くなろうとしているのではないか。

「…ありがと−な。きっと今日は豆腐どもの夢なんて見ないだろーぜ」
「い、いや、別にそんな…やっぱ悪夢って豆腐なのか。……俺は」

俺は。

おまじないをした手に、ひんやりとした感触がある。
天の助にとって、ずっと握りしめていたこの手は熱くなかっただろうか。
だが彼は何も言わなかった。
掴み所もなく、ただ、自分の心を撫でていくもの。

(…なんか俺、ガキ扱いされてんじゃないか……)

「…俺は多分、ちゃんと寝れると思うけど」
「んじゃーおやすみ」
「ああ。…おやすみ」


もしも『おまじない』に効き目があるならば、天の助は悪夢を見ないのだろう。
ならば自分はどうだろうか。効き目は失せてしまっただろうか。
いや。見ない。
きっと見ない。
感じていた絶望も痛みもどこかへ行ってしまった。
熱かった掌には、天の助に触れた時のひんやりとした感触が残っている。

その手を。
握りしめて、五秒間。

大切なもの。
お前は俺を思い浮かべてくれただろうか。
俺は。
俺は今ですら、思い浮かべているのだけれど。



きっと悪夢は見ないだろう。
けれどもそれ以上の願いを叶えるためには、
五秒間ではとても足りない。
願わくばおまじないなどではなく、向き合って、もっと、ゆっくりと。
だから、そのために。

隣で笑っていられる明日は、この手が掴むのだ。

ヘッポコ丸は目を閉じて、小さく息を吐いた。
まずはこの身体に訪れた、悪夢の与えるようなそれとは確実に違う違う熱と高鳴りをどうにか鎮めなくてはならない。
安らかな眠りはそれからだ。


だがこの掌は、当分その感触を忘れてくれそうにはない。












『悪夢の後に、五秒間』屁天。独立してはいますが、一応同じテーマの破パチと同時刻の話です。
「おやすみ」の後にありがとうと言わせようと思ったけれど、へっくんいっぱいいっぱいでした…
悪夢は悪夢でしかないんですが、ドツボにはまってしまうヘッポコ丸。
天の助は悪夢は見ても、起きた時には落ち込むんじゃなくて怒りそう。豆腐廃止…

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