海を一つ超えて暫くした場所に作り物の天国がある。
人の手によって作られた、神を賛美する歌の名を掲げる国。
民衆はその地の名を畏怖すら抱き呼ぶくせに、まるで吸い寄せられるかの様に近付き流れ込んでゆく。彼らは天国の客となり一時の夢に沈み、彼らに与える夢の為に道具の様に使い捨てられる人間がいる。
夢を欲しがる者達。
その礎として夢を吸い取られる者達。
海を一つ超えたこの場所も、己の住み処も、よく似ている。
魔力
湯気の消えかけたカップに口を付けて、甘みのある液体を喉に流し込んだ。
紅茶のことはよく知らない。このカップの中身にも名はあるのだろうが、興味は無い。詩人やJならば味で名が解るのかも知れないが、彼らがここに来て持て成しを受けることもないだろう。
「…如何ですか」
「さあね」
俺には解らねえよ。
言えば彼は詫びてきて、それで終わるだろう。
向かいに座るこの、ハレクラニという男と己の間には盛り上がる様な共通の話題は無い。そもそも仕事でここにいるのだから、こうして出された茶を飲みながら沈黙していることも何かおかしいのかも知れなかった。
王龍牙はサイバーシティ電脳六闘騎士として、帝王ギガの命令により定期的にハレルヤランドを視察している。
視察といっても名目だけのもので、読みもしない営業の記録と上納金を受け取るのみだ。
その際は必ずこうして形式的な持て成しがあり、マネー・キャッスルでハレルヤランドのの支配者であるハレクラニと向かい合うことになる。
ハレクラニはマルハーゲ四天王の一人である。帝国内では幹部ということになるが、六闘騎士である己との間にはっきりとした上下関係はない。むしろ彼の方が己に接する際、下手に出ている。
サイバーシティは帝国の一部とはいっても、ツルリーナ四世がギガに対等の立場を約束することを引き換えにその関係が成立している。表向きは自治都市ということになっているが実際は対等ですらない。この関係が崩れればサイバーシティは間違いなく帝国の脅威になる故に、ツルリーナ四世がギガに対して上手に出ることはない。
ハレルヤランドがサイバーシティの傘下にあったことに関しても、そうだ。ギガの一声でそれは決定し、ハレクラニは最近までサイバーシティとハレルヤランドを往復していた。
その時期が終わった現在も、営業の記録と上納金を受け取ることは変わっていない。その役割を任されたのが龍牙だった。
最近ギガが始めた真拳狩りに関しても共に担当し、処刑などの都市内での仕事は他の六闘騎士に任せることになった。
処刑に比べ大人しい作業を繰り返すばかりの日々は退屈ではある。だが、ギガの命令とあらばそれは絶対だ。
「相変わらず、寛げねぇ風景だな」
「…と、いいますと」
ハレクラニはギガはもちろんのこと、六闘騎士に対しても目上への態度を使う。自らの意思でそうしているのか、仕方なくそうしているのか、読み取ることはできない。
「煩いんだよ。そこかしこを舞ってやがる紙切れが」
ハレクラニを囲む様に舞う、紙幣。
それは彼の意思の通りに動くもので、それが彼の真拳である。サイバーシティの処刑賭博においても金は舞うが、その比ではない。
(…似てるんじゃねえな、そこは)
ハレルヤランドとサイバーシティはよく似通っているが、舞い散る紙幣が意味するものは違う。
紙幣。
価値があるとはいってもそれは所詮紙切れに過ぎないが、この場所で舞うそれらはハレクラニによって操られ彼を守るものである。
サイバーシティに希望や絶望とともに舞うそれとは違う。「大人しくさせます」
ハレクラニが呟くと、重力を無視していた紙幣達はみな地に落ちて山となった。
それでも二人の向かい合う場所にだけは壁が出来ているかのように入ってこない。ハレクラニがそうしているのだろう。
「申し訳ない。普段からああしているもので」
そう言って彼は、小さく頭を下げた。
彼は不思議な程に大人しい。馬鹿にされても、受け流す。
その表情から憎しみなどを読み取ることはない。
よほど上手に感情を隠しているのか、割り切っているのか、
忠義か。
(…忠義、ね)
向けられるそれは、龍牙に対するものではあるまい。
その後ろにいる帝王、ギガに対するもの。
「よくもまあ、あんな紙切れに頼るモンだ」
笑って、そう言ってやった。
どうせ大した反応を見られることはない。
整った顔も、鎧に包んだ身体も、歪めはしない。
その揶揄に対する憎しみを、この己に向けてはこない。「…紙切れであるからこそ、何よりも頼れるのです」
だがハレクラニは怒りを見せることも受け流すこともせず、微笑み返した。
「…は?」
「紙幣はその価値を約束されたものです。それが無ければ紙くずに過ぎない」
自分達の周辺を除いた部屋中に山を作る紙幣に視線をやって、呟く。
「その約束は誰にも同じ…君主にも奴隷にも同じものを与え、裏切る時は同じ様に裏切る」
龍牙もまた、それを追った。
ハレクラニはその山を構成する一つ一つを見ているようだったが、龍牙には同じものの集まりにしか見えない。
「金が絡めばそれは金で片付いたことになる。中途半端に関わってくることはない」
まるで呪文のように繰り返して、彼はその視線を龍牙に戻した。
「価値という名の、物質から独立したたった一つの約束に守られている。その他はただ紙切れであり、紙切れに過ぎない…これほど信用できるものはない」
その瞳の奥には絶対の自信が在った。
同情をしない。
裏切りもしない。
なるほど、これ程に解り易いものはない。
身分と権威、支配の社会である現代に存在する、絶対の平等主義者。
「…ふん」
その平等主義者が、ハレクラニに忠誠を誓う。
否、彼が操っているのだ。
どんな約束を持とうとそれは紙切れである、故にそれを駒とする。
「なるほどね」
言いながらハレクラニを見れば、既に元の澄ました表情に戻っていた。
先ほど一瞬見せた瞳の奥の自信は無い。
ただひとつ。
ただひとつ、確実に彼の心を動かすもの。
約束の紙切れ。
(…ただ、ひとつ?)
もしも他に、何かがあるのだとしたら。(…俺は、なに考えてる)
馬鹿らしい。
そもそも、何故こんな話をしているのだろうか。
「なんでンなこと、俺に話しやがる」
「…何故でしょうか」
「…バカか」
だが揶揄をするでも媚びるでもない、ぼうっとした言葉を返されて、気が抜けた。
ハレクラニという男が解らない。
例えそれが単なる忠義であったとしても。
その様子を再び伺えば、本当に不可思議そうな表情すら浮かべていた。
暫しの沈黙の後に、ハレクラニの部下からの通信が入った。
全ての手続きが終了したことを示すもので、龍牙はこの連絡の後に他の部下と合流しハレルヤランドを離れる。
全て普段と何も変わらない。
ここに来て彼と向き合い、時が来るのを待って、帰る。
二つのカップが空になる。
それを、繰り返す。
「…それじゃあな、ハレクラニちゃんよ」
「……」
「おい」
ハレクラニは立ち上がり、佇み沈黙したままでいた。
その視線がゆっくりと部屋を埋める紙幣に向く。
「ご存知ですか」
「…何を」
「金は、本当はただの価値のある紙切れではない。魔力を持っている」
その意味を解りかねていると、彼は続けた。
「人の心を惹き付けます」
「テメーみたいなのをか」
「…誰ではなく、全て」
その可能性を秘めているのだと、呟く。
「いつかその魔力に支配されるかも知れない。それでも人は互いの間にそれを巡らす」
背中を向けたまま話す声には掴み所がない。聞いてやる理由もあるものかと、龍牙はぼんやりと考えながらもその後ろ姿を見ていた。
ふいに、小さく笑う声が響いた。
「あれが無ければ、あなたもここにいないでしょう」
その呟きに。
何も答えなくても良かった。
むしろ、何も答えない方が良かったのかも知れない。
それでもこの口は、呟き返した。
「…紙切れを受け取るだけなら、飲みたくねえ茶を飲んでやる必要もねえよ」
あまりにも陳腐で性に合わない言葉。
それでも考える前に口から出てきた、言葉。
「………また次も、ここに?」
「いつだかな」
「ならば」何も考えなかったのだから、彼の声が何処か震えているように聞こえても、
何も考えるものか。「…次は上質のウバを用意します」
「…茶の名前なんざ、知らねえよ」
龍牙は出口の方に身体を向けた。
背中を向け合ったまま、そこで会話は途切れた。
ハレルヤランドの通路の空気は、サイバーシティのそれとは違う。
口の中に甘ったるい風味が残っているからかもしれない。
別に紅茶を嫌うことはないが、元より甘味のあるものは得手ではない。
(…飲みたくねえ茶を、か)
その言葉の意味を己で考えることはないが、恐らくまたここに来るのだ。
そして彼と向き合って、ウバという名の紅茶だか何かを飲み、そして。
彼と何を話すというのだろう。
ただ、時が過ぎていくだけかも知れない。(…なんだ、そりゃ)
彼のことが解らなければ、自分のことも解らない。
ハレクラニ。
魔力を持っているのは彼なのかもしれない。
(バカな)
ハレルヤランドと、サイバーシティ。
魔力の紙切れが人の心を舞う場所。
ただ、ハレルヤランドには自分がいない。
サイバーシティにはハレクラニがいない。
違うことなど幾らでもあるのだろうが、龍牙はそこで考えることの全てを辞めた。
前に歩くことだけに意識を集中させる。
その違いなど己が考える必要はない。
何故そんな風に考えるのか、疑問を持つ必要はない。そこに浸るのは、あまりにも性に合わない。
そして、許されるものか。(…何に)
何に許されないと。
だが例えば己の生み出す牢に彼を捕えておけるのかといえば、
その為には彼は近すぎて、遠すぎる。
少なくとも、今は。
通路を抜ければこの場所から離れるまで幾らもない。
その魔力を感じられぬ場所まで、幾らも、ない。