しゃこしゃこというその音は人にとっては身近で、特にどう思うものでもないだろう。
だが一つの部屋で幾つものその音が、競い合う様に鳴り渡ればどうだろうか。響くのはその音だけで他に交わされる会話などあるわけもない。
だが、結局は。
慣れてしまえば、それも日常の一部となるのだ。




歯ブラシ



「んぁ、きょふはぁ。あろら…」
「ふが?」
「わあ、バカ。しゃべるの、口ゆすいだあとにしろよな」
「別にいいんでね?」
「よくないよ」
コパッチたちがわらわら、わあわあとやっているのを横目で見ながら、破天荒は己の手を動かした。
ここに来たばかりの頃は五月蝿くてやっていけないとも思ったのだが、今は彼らが賑やかでないとそちらの方がおかしいと感じるだろう。小さな彼らが揃って走り回ったり、向かい合ってくすくすと笑っていたりするその光景が今はもう日常となっている。

「はてんこー、聞いてくれよう。あいつが俺のこと、シンケーシツだって言うんだ」
「だってこいつ俺のことガサツだって言うんだぜ!」

種族の違う破天荒には解らないことも多いが、彼らにもまた個性がある。幼い子供のように仲良くすれば喧嘩もする。妙に大人びたことを言う時もあるのだが、こうしているのを見るとやはり子供に見えてくる。
「別にそんなの、どっちだっていいじゃねえか」
「よかねー」
「よかねーよ!」
こんなところでは気が合うのだから、解らない。
破天荒はふう、と溜息をついて逆側に振り向いた。
そこには彼がいる。こんな時こそ彼に頼りたいし、頼るべきだとも思っている。
「おやびん」
二人のコパッチも同時にそちらを見た。その周りの何名かも同調し、そうでない者はやはりどたばたどんどんと騒ぎまわっている。
「…ッてわあ、おやびん!」
破天荒は思わず、やや大きい声をあげた。
おやびんこと首領パッチは何故か煙草をくわえていた。サングラスまで光らせている。
「わ、おやびんかっこいい!」
「おい見ろよ、おやびんがー」
なるほど、格好良い。
だがおやびんは何時如何なる状態でどんな姿でいようとおやびんなのであるからして、
(…じゃなくて)
一度息をついて、再びそちらを見る。
「おやびん、歯ブラシはどこへやったんです」
ハードボイルド首領パッチは煙草を摘んで口から放し、ふう、と一息吹いた。
よく見ればそれは煙草ではない。チョコレートだった。
「献上した」
「だ、誰に?」
「タコ揚げ様」
「!おやびんに献上なんてさせるそいつは誰ですかッ…じゃなかった、おやびん。歯磨きは」
「終わったぞ。でもさあ、ずっと口ん中飴入れてたもんだからもう、超ジャマでー」
「えー!」
キャンディにチョコレート。
歯磨きの意味は無さそうだった。





「よーし、トランプやるぞぉ」
「ババ抜きがいい!」
「この人数でやるもんじゃないよ」
「大貧民トーナメントしよーぜ」
「それよりウノー」
それぞれ口をすすいだコパッチ達は、わらわらと集まって夜更かしの遊びを話し合っている。
彼らによって山積みにされたカードやボードゲームを横目で見ながら、破天荒は首領パッチに目を移した。
何を賭けるでもない遊びのゲームにそこまで興じられる人間ではないと自分でも思うが、首領パッチが絡むのなら話は別だ。彼がやりたいと言ったことが己のしたい事になる。首領パッチは、カードゲームも好きだ。
「おやびんは、何がいいですか?」
「んー…」
昨夜は七並べをやった。その前はすごろくだった。そのもうひとつ前は小さなカラオケセットを広げて、首領パッチの声を彼が歌い疲れるまで聴いていた。
ともに過ごした時間のことならば、覚えている。
意識せずともこの胸に刻まれている。
「今日はなんでもいい」
破天荒に、というよりはその場にいる皆に、首領パッチは言い切った。
「えー。ねーおやびん、大貧民がいいですー」
「そーだそーだ」
「バカ、ウノだってば」
「ソリティアだ!ソリティア!」
「大人数でやるゲームじゃないだろ!」
コパッチ達がますます騒ぎだす。わあわあと賑やかなその空間で、首領パッチに望みがない以上口を挟むでもなく、破天荒は黙っていた。
ふいに、首領パッチが立ち上がった。
「よし、おまえら。俺はトイレいくから、それまでにアミダで決めとけよ」
一同はそれを聞くと静かになり、すぐ、まるで示し合わせたかのように揃ってはぁい、と叫んだ。
「んじゃ、いってきまーす」
「おやびーん。おみやげー」
「おみやげ!」
「おっしゃ!トイレットペーパー捕まえてきちゃる!」
服は着ていないが腕まくりするような仕草を見せて、首領パッチが宣言する。
コパッチ達のうち幾名かは、紙を敷いてあみだくじの準備をしていた。

「お、おやびん。俺も」

思わず、そんな言葉が出てきた。
なぜそうしたのか考えもしなかったが、
「おう。ついてこい」
首領パッチは頷いて返してきた。
「わ。破天荒、おやびんと連れションー」
「連れション連れション!」
「いいなー。僕も行こうかな」
「バカ、お前トイレ行きたいのかよ?」
破天荒は何となく苦笑いしながらうるせぇ、と言うと、コパッチ達を一通り確認する。本気で同行を希望する者はいないようだ。
「…じゃあ。行きますか、おやびん」
「おー。捕まえるぞー」
何故だか少し、安堵した。




「…破天荒。お前はやりたいゲーム、ねぇの?」
「おやびんが楽しいと思うようなことをしたいです」
二人並んで廊下を歩きながら、話す。
首領パッチは己より背の高い者に視線を合わせることに慣れているが、破天荒はそれでも目一杯顔を下に向ける。
そうすることで、彼との距離が少しでも縮んでいく気もした。
「そうじゃなくて、お前がさ」
「俺はいいんですよ」
破天荒には、首領パッチが今本当にしたいと思っていることを言い当てることなどなかなかできはしない。悔しい思いが無いわけではないが、それが首領パッチなのだ。
彼はその時、その瞬間、ありのまま彼である。
故に破天荒はまず首領パッチに望むことを求めていた。
「おやびんにしたいことがあるなら、それが俺のしたいことですから」
彼が何かを望むならそうする。望まないのなら、彼が何かを望む時何かが出来るように待っている。
「そうじゃなくて、お前がだ」
「それが、俺です」
繋がっているようで繋がっていない会話をしながら、二人はトイレの前まで来た。
「おやびん、お先にどうぞ」
「いい。俺、トイレ行きたいんじゃねえもん」
だが首領パッチはトイレを素通りすると、隣の洗面所に足を踏み入れる。
「…おやびん?」
「お前はトイレ行けよ」
「え、いや…あの、どうして?」
その小さな手に、先程も握っていた歯ブラシを取り上げる。
「口ン中の飴、なくなった」
「あ…」
破天荒は納得した。
だが、だとしたら何故トイレに行くなどと言ったのだろう。
「トイレ、行かねぇの?」
「あ…その、実は俺もそんな」
首領パッチはじっと破天荒の方を見ていたが、ふうん、と小さく返した。



しゃこしゃこと、音がする。
歯を磨く時はだいたい洗面所に交代で入るが、今日の様にたまに大部屋で磨くこともある。揃って磨くのには洗面所は狭い。歯ブラシを用意して、大部屋で歯を磨き、洗面所に列を作って口をゆすぐ。
妙な習慣だが、破天荒は嫌いではなかった。
この狭くはないが広くはない洗面所に、二人きりでいることなどどれくらいぶりだろうか。黙って歯を磨いている首領パッチを、やはり黙って見つめる。
二人きり。
そうなりたかったから、自分もたまたまトイレに行きたいと嘘をついたのだ。言い訳のしようもない。
だが首領パッチはなぜ歯を磨くためにトイレに行きたいなどと言って、しかも破天荒がトイレに入らないことに疑問を持たず、追い返しもしないのだろうか。
見ると、彼はやはり黙ったまましゃかしゃかとやっていた。


首領パッチは口をゆすぐと、歯ブラシとコップを戻した。
「…なあ」
「はい」
「お前、自分でやりたいこと言わねぇな」
ぽつりと呟かれたその言葉に、破天荒は押し黙った。
何か彼を不愉快にさせるようなことをしただろうか。
「…その、俺は。おやびんが」
「そうじゃねえよ。お前が今やりたい、って思ってること、俺、聞いたことねえ」
首領パッチが唐突に何かを言うのは珍しいことではない。むしろそれが彼の魅力でもある。
だが。
「ずっと、受け身だな」
「…でも、俺は楽しいですよ」
「楽しいか」
その小さな身体は洗面台の方を向いていて、破天荒には背中しか見えない。鏡からも彼の表情は読み取れなかった。
「…いつか」
ぽつり。
首領パッチの声は普段の、それまでのものと比べて格段に小さかった。


「いつかみんな、思い出にしちまうのか?」


「…おやびん?」
「お前がここになんも残してかないなら…」
「……」
「この村にあったことはいつかただの昔話になる」
その声は小さくも淡々と、はっきりしていた。
そして筋は通っていた。
何も残していかない。
確かに自分はいつかここから離れて、やり遂げなくてはならないことがある。


この場所に何も残していかない。
そうして過去にして、風化させてしまう気なのかと。


「…どうして、そんな」
「お前見てると、そう思うんだ」
「…違う。違います」
破天荒は首を振った。
そうではない。
ここに、幸せを見付けた。
大切なもの。彼が、幸せであること。
そうでありさえすれば自分も幸せである。
だからその姿を見守ることが楽しかった。
彼はいつでも彼らしく、輝いていた。

「俺、あなたを見ているだけで幸せなんです。本当です、おやびん」
そこに偽りはないのだと、それだけは伝えねばならない。
いつか忘れ去るための思い出を作っているのではない。
今この時の幸せは確かにここに在るはずだ。
それはまるで、自分に問いかけるための言葉でもあるかのようだった。
「幸せだから水を差したくないんです。あなたが幸せなら、それだけで」
それを己が妨げてしまうことが恐ろしい。
いつか離れていくのだとしても、今己はここにいる。
大切だと感じることのできる時を過ごしているのだと実感している。
それはここに来るまで、確かには掴んだことのない感情だった。
「…俺の幸せも、そこにあるんです」


やり方を、知らないのだ。



「…そっか」
「…はい」
首領パッチはゆっくりと、破天荒の方を向いた。
「そーいうことも、あるんだな」
破天荒が慌てて首を振るのを見ながら、首領パッチは笑った。だが一瞬困ったような顔をしてそっぽを向く。
「お、おやびん?」
「…あの、まあ、あれだ。トイレ行くっつったら、お前も来ると思ったんだけど」
「…え?」
「なんかその…なんでもない」
ぷい、と身体ごとそちらに向けて呟くと、出口にその足を向ける。

「お前が幸せだって思うなら…俺の幸せだって、今ここにあるんだぞ」
「……え?」

「……戻るか」
「…おやびん」


破天荒は思わず、声をあげた。
先程首領パッチに同行を申し立てた時とは幾らか違う。
こみあげる何かが、言葉を押し上げたのだ。


「おやびん…俺の幸せは、ここにいることですから」

「…ん」
首領パッチは背を向けたまま、やや戸惑ったような声を返した。
「いつまでもそれが幸せです。ここから離れても、心の中に置いておきます」
「…なんか、はずかしいぞ。それ」
「おやびんはずっと俺の中にいます」
小さな背中がぴくりと動く。
「…そんな先のこと、わかんねーだろ」
「でも今はそう思うんです」
破天荒はゆっくりと出口の方へ歩くと、首領パッチの前にまわり目線を合わせた。小さな手が頬を撫でるように覆ったのを見て、胸がどくんと鳴った。
もしかしたら今自分は、彼と同じような顔をしているのかも知れない。
彼は自分と同じ顔をしているのかもしれない。
洗面所の鏡にはそのどちらも映りはしないが。
「…なんかさ」
「…はい」
「お前のその顔、はじめて見るぞ」
「そうですか」
「いつもよりバカみてー」
「…そうですか?」
その言葉はちっとも不愉快などではなかった。
己の表情の変化を気にかけることはあまりないが、ここに来てから自分はきっと昔よりもやや緩んだ顔をしていて、今は更に幸せそうにしているのだろう。
ある幸せを感じることを覚えたためだろうか、そう思う。
「怒らねーの?」
「怒る気になんてなりません」
「…そーかぁ?」
首領パッチは目線をやや下にして、そしてその頬を少し赤くして、ぽつんと呟いた。



「…ちゃんと歯、磨けました?」
「…おう」
「甘いものを食べてそのままにしておくと虫歯になっちゃいますから」
「ガキじゃねーんだから、わかってるって。…そんなに言うなら、お前磨いてくれよ」
「…いいですよ」
「え……うー」
「そしたら、俺の願い事をひとつだけ聞いてくれますか?」
「願いごと?お前がか?」
「はい」
「…よっしゃ。言ってみ」
「……歯ブラシと、コップ。俺のを、おやびんとお揃いにしたいんです」


そうして、彼の使うそれの隣に置いておくのだ。
二つ並んでいるのを見れば、あれは彼と己のものだと解るように。
ここにあるのがそうなのだと、解るように。



例え見分けがつかなくなったとしても、別に構わないと思った。











えー破天荒がおやびんに、昔の教育番組のように歯磨きしてあげる話だったはずが…
何でしょうかこれ。ラスト一文は特になんなんだ。
他の件については言い訳すらできない方向でいきたいと思いま、すみません…

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