目覚め
その日は幾らか、風が強かった。
髪は揺れ、運ばれた細かい砂や塵が肌を打つ。
それを多少煩く思いながらヘッポコ丸は辺りを見回した。
宿を出てからずっと歩いてきたところを毛狩り隊に襲われ、そこから更に暫し歩いた場所で休憩となって、どのぐらい経ったか。
首領パッチに絡まれ、破天荒には意味もなく睨まれ、ボーボボのボケにビュティとともにツッコミを入れ、そうこうしている内に彼の姿がないことに気が付いた。
遠くまでは行ってはいないだろうが。
解っているのだけれど、探さずにはいられなかった。
ヘッポコ丸よりもやや小さく、人間タイプとは違った形をしたその姿は短く生えた草の中にあった。まるで埋もれる様に横たわって、いた。
強い風に揺れがさがさと小さくはない音を起てている草は、心地良いと思えるほど柔らかいのだろうか。
「…天の助?」
呼んだが、返事はなかった。
「寝てるのか」
問うというより確認するように呟いて、ヘッポコ丸は溜息をついた。
いつの間にか仲間達と離れたこんな場所で、彼は本当に眠っているようだった。
何となくその場を離れることができず、横に腰を降ろして、暫し。そうは経っていないだろうが、随分長くそうしていた様な気もする。
相変わらず風は強く、木々も草花も擦れて揺れて音は止まない。
なのに変わらず、ヘッポコ丸に気付くはずもなく、天の助は眠っていた。
「……」
ゆっくりと体を捻る。気を使わずとも大した音は出ないだろうが、意識せずともそう動いていた。
そこまで深く眠っているのかと、その顔を見た。
(…寝てる、な)
眠っている。
普段はボーボボ達と騒いで、ところてんを促進するのだと叫び、敵に絡んでは返り討ちに遭うその存在が、今は不思議なほどに静かだ。
そこまで疲れていたのだろうか。
今朝、宿を出た時はどの様な表情をしていたか。
再びその顔を伺って、
ヘッポコ丸は小さく息を止めた。
ふと、気付いた。
その寝顔はまるで、子供のようにあどけなかった。夜眠る時は、ヘッポコ丸も同じ様に眠るのだから意識しなかった。
ボーボボ達とのやり取りの中で眠る姿は、意識せぬ間に次の姿へと移っている。
彼はこんなにも、幼かっただろうか。
寝息は強風にかき消され聞こえない。だが小さくあけた口から、すうすうと繰り返しているであろうことは解る。閉じた目も穏やかで、柔らかいであろうその体をやや丸めるようにして、彼は眠りの底にいる。
こんなにも穏やかだったろうか。
こんなにも。
ヘッポコ丸は心の中で繰り返した。
微かに締め付けられるかのようだった。
天の助はいつだか、自分のことをところてん暦三十四年だと言っていた気がする。
その時は大して考えることはなく、その時も含め強く感じたことはあまりなかったが、ヘッポコ丸が今までの人生をもう一度繰り返しても彼の歳には足りない。
生きた年数とその中にあるものは異なると解ってはいるが、比べてしまう。
三十四年。
それほど生きた時、自分は何をしているだろう。
人間の自分。
ところてんの彼は三十四年、どう生きてきたのだろうか。
天の助の人生が、明るいことばかりではなかったのは知っている。彼自身がそう言っていた。そればかりは偽りとも冗談とも思えない。
初めて会った時は、毛狩り隊の一人だった。
けれどもスーパーで売られていた時期もあるのだという。
実際再会したのはやはりスーパーだった。二度目の再会は、確かやはり毛狩り隊の基地だった。心太として生まれたのに意思を持ち立って歩き、スーパーマーケットに並び長い間売れ残り、毛狩り隊に入ってそこで敗北し、再び店に並んでいたところを、ボーボボに買われるという形で仲間になった。
その時の、天の助を思い出した。
泣いていた。
その後は、はしゃいでいたのだと思う。
金で物を買った感覚を彼に対して持ってなどいないが、天の助にとってはそれこそが何より幸せだったのかも知れない。価値を見出されたのだという意味があったのかもしれない。
ハジケブロックでボーボボにお前も来るかと言われた後、はじめ暫くボーボボ達に馴染んではいなかった内も、彼はやはり嬉しそうにしていた。
多少虐げられたぐらいではへこたれない。
体を切り裂かれても、元に戻る。
そうしていつも懲りない姿を見ているから、深く考えたことはなかった。
どれだけ。
彼は自分の二倍もの時を過ごした中で、どれだけ痛みを感じてきたのだろう。
眠っている姿がこうも幼く見えるのが、
まるで夢の底では痛みを感じないからなのだと思えて、
ヘッポコ丸は己の胸を押さえた。
痛みならばヘッポコ丸の人生の中にもあった。
体の痛み、心の痛み、意識の痛み。
それはきっと誰の中にもそれぞれ違って存在しているのだろう。
こうして胸を押さえつけられているのは、天の助の中にあるそれを確かに認識したからではない。他人の感じる痛みをそうそう理解できるものではない。だが今、天の助を見ていて、感じるのだ。
今こうして安らかに眠っている彼こそが彼で、それが彼にとっては幸せで、このまま眠ったまま起き上がらないのではないか。
このまま消えていってしまうのではないか。
この目に映らぬ場所まで。
あまりにも穏やかで、優しくて。
己の入り込めないそこが、彼の選ぶ場所なのではないかと思えてくる。
ヘッポコ丸は首を振り、起きている天の助のことを考えた。
起きている時の彼は三十四、それなりに歳相応とも言えるだろう。時折子供の様な表情をすることもあるが、普段の彼の瞳を思い出せば、そこからは長い時間を読み取れるような気がする。
彼はその目で今まで世界に何を見たのだろう。
ヘッポコ丸は出会う前の天の助のことを、思えば殆ど知らなかった。知りたいとも思っていなかった。
いや、むしろ忘れてしまえと思っていたのだ。
毛狩り隊。故郷の仇。敵。
売れ残っていた過去。彼の悲しみのある場所。
そこには確かに天の助の辿ってきた道があるのだろうが、そんなことより今現在に彼を繋ぎ止めておきたい。
ボーボボ達とはしゃぐ彼は幸せそうだ。
時折無茶をして、もしくは無茶をされて、ビュティがそれを心配している。己もそれを心配する。
二人で示し合わせて、何かをする。
冷たくあしらうこともある。
その時間の中、己と隣り合うことのある時間の中に、彼を、
捕まえておきたいのだと。
ああ。
ああ、そうか。
そんなことを考えてきたのだ。
そこに、辿り着くのだ。
笑えて、きた。
その気持ちはどこか汚れてすらいる。
こうして安らかな表情をしているのを見て胸が痛むのは、それが己に向けられたものではないからだ。入り込めない、あまりにも遠い眠りという世界の中にある天の助の安息に、悪意を抱いているのだ。
嫉妬というのだろうか。彼の過去にも、離れた場所にある時間にも、そんな思いを抱いている。
こんな気持ちを。
こんな気持ちを自覚して、目を覚ました彼とどう向き合えばいい。
優しい顔で眠り続ける彼を。
ヘッポコ丸はその寝顔に手を伸ばそうとして、自ら止めた。
もしここで触れてしまえば、何をするか己でも解らない。
解らない。
自分のことなのに、何も解らない。
彼のことも、何も解らない。
なんで。
「…ヘッポコ丸、か…?」
「…ぁ」
思わず、小さく声をあげた。
天の助は何時の間にか、目を覚ましていた。
「俺、寝てた…?」
「…ああ」
天の助は未だ寝転んで視線を空にやったまま、ぼうっとした声をあげる。
喉から絞り出すように答えると、彼は僅かにこちらを向いた。
「…ど、したんだ」
「…」
「いじめられたか?ボーボボか…デコッパチか…?」
やはりぼやけた声で、問うてきた。
「別に、そんな…」
「だってお前…泣きそう、だぞ…」
ゆっくりとその身を起こすと、ヘッポコ丸の頬を、撫でる。
指先の感触はない。
つるつるとして柔らかい、人肌よりややひんやりとした感触。
本当に、泣きそうになった。
「…てんの、すけ。やめたほうが、いい」
「なんでだ…?」
「俺、お前に何するか…俺、は」
その手に触れて引きはがしてしまおうとは思わない。
抱き寄せたいとすら思う。
だがこんな、嫉妬に固まった己の心が、彼にとって良いものか。
「べつに、いいぞ」
「…なんで」
「俺は、ちょっとやそっとじゃ壊れない。それにお前、優しいし」
「…やさしくない」
優しくなど、ない。
「お前、俺が本当に痛いって思った時、自分まで痛そうな顔してくれるし」
「……」
「それに、なんだろな…お前といると、あったかい」
天の助はまだ寝惚けているのだろうか、ふわふわと笑って、ヘッポコ丸の頬にぺたぺたと触れた。
「お前、優しいよ。誰にでも、やさしい…」
「…違う。俺は」
「でも自分にだけは、やさしくねえよな」
ヘッポコ丸は小さく、下唇を噛んだ。
己が優しいとは思えない。
彼に対する自分は、醜いのではないかとすら感じる。
「俺になんかして、お前が自分に優しくできるなら、それでいいや」
「…なんで、そんな」
「俺が笑ってくれっていって、お前が笑うんじゃ意味がないんだ。お前が自分から笑えるように…」
彼の意識はどこか、少し離れた場所にあるらしかった。何かを思い出すように語るのを、ヘッポコ丸は黙って聞いていた。
「…俺、お前になにができるか、わかんね…」
「…」「……お前のこと。大好き、なのになぁ」
天の助は、
少し悲しそうに、笑った。
「…好き?」
「ああ…好きだぞ。みんな、好きだ」
「…そっか」
「みんな、好きだぞ。好きだけど…でも」
どこかぼんやりとしていた彼のその声が、はっきりとする。
大人びてしっかりとした声が、凛と響く。
「お前が幸せそうにしてるの見るのが、たぶん一番嬉しい」
「…天の助」
「他のやつには、ナイショな」
ヘッポコ丸は目を細め、浅く頷いた。
己の心は醜いと思うのだけれど、彼のその言葉に期待する。
受け入れてくれるような気がする。
どこか危うさを含むその気持ちは、やり取りをすることで釣り合っていくのではないかと。
痛む胸に甘く、被さるように響く。
「な。…もうちょっと、寝ててもいいか?」
「あ…ああ」
「んじゃ、寝る…」
「……またちょっとしたら、起こしてやるから」
「ん。頼んだ」天の助は、まるで子供のように笑った。
「幸せだな」
「え…?」
「起きた時、大切な奴が側で待っててくれるんだ」
「…え」
「すごく、嬉しい」それだけ言うと、天の助はぱたりと倒れて、おやすみと呟いた。
寝惚けていたのか、意識ははっきりとしていたのか。
幾秒数えぬ内に、またその表情は安らかになった。
強い風の音を忘れるほど、胸が鼓動していた。
彼に集中していた。彼が目覚めた時に大切な誰かとして、ここで待っている。
その言葉が嬉しくて、
同時に、大切な誰かの中の一人でなくただ一人になりたいのだと、心のどこかで想っている。
そうか。
愛しい、のだ。
愛しいから、彼が己と出会った時に持ってきた昔の荷物に嫉妬する。
愛しいから、その安らかな眠りから引き離したいとすら思う。だが、過去を含めて天の助は今現在ここにいる。
眠りの先には目覚めがあって、そこには自分が待っている。
それは醜いのだろうか、そうではないのだろうか、だが捨てきれず、
だからこそ今胸が高鳴って頬が熱い。
彼の言葉をこの上なく幸せだと感じている。
その表情はやはり穏やかで、幼い子供のようだった。
これも、天の助だ。
普段の彼も今の彼もすべてを交えたのが天の助なのだ。
彼の中には己の知らないこと、触れたことのないものが詰まっている。
けれどそれを含めてこの腕の中に引き寄せたいと思う。
どこか、儚くもあるから。
守ってやりたいと、思う。通じているからだ。
目が覚めた時、彼の側にいるのは己であるからだ。
それを彼が望み、己も望んでいるからだ。
他の誰にも伝える気はしない。
ただここで待って、その時を二人きりで迎えたかった。
甘く安らかなその表情ごと抱き締めてしまおうかと考えて、自ら止めた。
それはきっと彼の眠りを妨げてしまうだろうから。
風が少しずつ優しくなっていくように感じた。
隣に座って、目覚めの時を待つ。