未来



夕焼けの空の下に鋭い音が響く。
拳と拳、膝と膝、体と体のぶつかり合う闘いの音色。
暫しそれが続き、やがてガキリと強く弾けて、それきり止んだ。
その空間は静寂をほぼ取り戻し、微かに荒れた一人分の吐息のみを残した。



「ボーボボ。お前、スタミナが足りないぞ」
まだまだ息切れする様子のない少年は、少し長めにしてある黒髪を揺らして友人を笑った。
「お、俺だって…別に、サボってるわけじゃ」
幾らか息を荒くしたもう一方の少年は、座り込むとまではいかないが肩が落ちている。
「軍艦、凄いな…まだ疲れないのか?」
息を整えながら少年、ボーボボが問うと、軍艦はまた黒髪を揺らして笑った。
「俺の鍛え方を甘く見るなよ」
「なんだよ、俺だって技じゃあ負けないぞ」
「お、言ったな!」
変声期にはまだ当分かかる少年達の声は、無邪気で透き通っている。そうして笑い合う内に空は少しずつ闇を色濃くしていった。
「もう暗くなるな」
「戻るか?…あ、水飲んでこうぜ」
「ああ」
二人の訓練は陽が昇れば始まり沈む頃に終わる。これが決められている基本的な部分で、余った時間を使って自己で鍛錬する。
まだ十にもならぬ歳の少年の日々としては重苦しいものがあるが、それも二人が鼻毛真拳の門下にあり継承者候補であるが故のこと。幼い彼らにとってそれは使命であり、当然のことであり、確かな道であった。

蛇口から吹き出す冷水を頭に被ると、汗が全て吹き飛んでいくように感じた。
「行こう」
ボーボボは額の雫を手の甲で拭いながら軍艦に声をかけた。軍艦は彼の方を向いて笑顔を見せたが、頷きはしなかった。
「先に行ってくれ」
「…なんで?また何かあるのか」
「別に、お前に関係あることじゃない」
濡れた髪を掻きあげなから首を振って、背を向ける。そうしてから小さく呟いた。
「一人になりたいんだ」
その声は有無を言わさぬ響きを持つ。
ボーボボはそれ以上追求することもできず、解った、と呟き返した。


軍艦は、二人での決められた訓練の時間を除いてはボーボボと離れていることが多い。それでも日が暮れれば二人で修行場を後にしたものだったが、最近はそれすら少なくなった。
彼は必ず一人になりたいのだ、と言う。
そしてどこかへ行ってしまう。次に会うのは、翌日の訓練になる。
友人の気持ちを無視するわけにもいかないが、語られぬその理由が気にかからないと言えばそれは嘘であった。




ボーボボは太い木の幹に背を張り付け、深呼吸した。
気を抜けば軍艦はすぐにこちらに気付くだろう。気配を消すことは不得手ではなかったが、彼の勘の良さを甘く見ることもできない。
(…一度だけ)
一度だけ。
一度だけ見たら、ここから離れよう。
例えそこに何があったとしても、それ以上は何もするまい。
ボーボボは心の内で繰り返して、木の影から少し頭を出してそこにいるであろう軍艦を覗いた。
彼を追ってこの場所へ来てから、考えている内にもう随分と経っていた。

「…!」
ボーボボは息を呑んだ。
「…はっ…はッ!」
軍艦の影は右の手の平と足の爪先を地面に付け、上下していた。左腕は背に。あれだけの修練の後、こんな風に腕立て伏せをして苦しくない筈がない。
一人になりたいのだと、その呪文の様な言葉に首を振れず、ボーボボはその背中を見送ってきた。その度に軍艦はこんな風に、暗闇の中で己を鍛え続けていたのだろうか。
(…すごい)
彼に隠れて覗いているのだという、幼心の中の後ろめたさも全て吹き飛んだ。
ボーボボの中に純粋な衝撃が走っていった。
日々自分と同じ鍛錬をした上に、別れた後もまた鍛錬する。その努力の上に軍艦の強さが在るのだ。そうして明日になればボーボボの前に平然と現れ、一日を過ごす。それを繰り返す。
ボーボボの中で何かが繋がって、突き抜けた。
軍艦は凄い。
ボーボボは呆然としながら、そこに確かな驚愕と尊敬を抱きながら、再び軍艦の影を見た。
闇の中で表情は知れなかったが、その息はいよいよ荒くなってきた様だった。



その場所を離れたころにはもう夜も更けていた。
父親が叱ってくるかもしれない。しかしそれを考える前に、ボーボボは軍艦の姿を何度も繰り返し思い出していた。
(軍艦は、すごい)
それは、強くなるだろう。日々の鍛錬に加えてあれだけ努力している。
例えば、自分に同じことができるだろうか。
ボーボボは小さく首を振った。比べてはならない。彼は、自らの意思でそれを始めたのだ。
(…俺も頑張らなくちゃ)
兄弟弟子があれだけ頑張っているのに、己がそうせずにどうしていられよう。
ボーボボは大きく深呼吸をして、何をすべきかを考えた。
突然軍艦と並べるなどと思ってはならない。軍艦と己の間には言葉で説明できるだけの確かな差が存在するのだ。
考える内にふと、軍艦の荒い吐息が聴覚に蘇った。
彼は体を壊してしまわないだろうか。己を追い詰めすぎてしまわないだろうか。
彼がひたむきで努力家であるからこそ、それが気にかかった。



軍艦は真っ直ぐな頑固者だと、ボーボボは思っている。彼のそんなところが、嫌いではないが気がかりだった。
強くなることを、そうして認められることを真っ直ぐ目指している彼の姿は輝いていて、どこか尖っている。彼の強くなりたいという真っ直ぐ過ぎる気持ちは、彼をよく知らない人間との間に見えぬ隔たりを作っている。
幼いボーボボはそれを感じても理解までには至らなかったが、一度父に対して軍艦をどう思うかと問うたことがある。
父はぽつりと、不器用な子だな、と答えた。
ボーボボには、不器用というその言葉の意味が解らなかった。
だがそれが決して悪意のみではないことだけは感じ取れて、ボーボボは安堵した。少なくとも父は軍艦のことを嫌っているのではない。軍艦のことを悪く言う者もいたが、ボーボボには彼らが解らなかった。
軍艦は確かに愛想は悪いかも知れないが、話してみれば優しく素直なのだ。
頑なかもしれないが、誠実で責任感もありボーボボのこともよく引っ張ってくれる。
周りが彼に抱くものが何であろうと彼の良いところを幾らでも知っている。
気がかりなことはあれど、ボーボボは彼は己の一番の親友であるのだとその心に固く誓っていた。

例え彼との間に、何があろうとも。






月日が、流れた。
七代目鼻毛真拳伝承者の決定される日が訪れた。
幾人もいた候補者は、幼いボーボボと軍艦のたった二人にまで絞られていた。

「ボーボボ」
「…うん」
「緊張、してるのか?」
「…ちょっと」
「リラックスしようぜ。大丈夫だ、お前ひとりじゃなくて俺もいるんだから」
軍艦は笑って、ボーボボの肩を叩く。
これより五百人組手が行われ、その後に継承者の発表が行われる予定になっていた。
「ああ…軍艦も、いっしょだもんな」
「お前の背中を俺が守るし、俺の背中はお前が守る。そうだろ?」
「ああ。もちろんだ」
「そうさ。他の奴らとは、違う」
再度、今度は小さく、軍艦が笑った。
「最後にここに残るのは俺たちだって、きっと決まってたんだ。最初から」
「…そんなことはないだろ。みんな、頑張ってた」
「頑張ったって、結果は結果さ。みんな脱落してったじゃないか」
軍艦は再び、ボーボボに笑顔を向けてみせる。それは無邪気なものだった。
他の誰かの話をする時の、どこか大人びた冷めた顔とは異なる。
歳相応の少年の笑顔。
「こうして俺と並んでるのは、お前だけになっちまった」
ボーボボは思わず、首を振ろうとした。否定をしようとした。
軍艦は立派な男だ。自分のみならず、本当ならばもっと多くの人間に認められるべき男だ。まるで世界に己とボーボボのみしか認めぬようなその言葉は、決して正しいとは思えない。
(…軍艦)
軍艦は、強い。
大人になって世に出ることになった時、きっと多くの人間が彼を認めるようになるだろう。その時己は彼の側に在るだろうか。彼は、どうなっているだろうか。
ボーボボはかつてより少しだけ大きくなって、『隔たり』をも含めたのが軍艦なのだと理解するようになった。同時に、自分が彼のことを全て理解している、と思っていたのは間違いだったのではないかと感じるようになった。
彼がこうも言葉をかけてくれるのに、それに頷くのみ。
ボーボボは心の中、軍艦に手を伸ばす己の姿を想像した。
届いて、いるのだろうか。




ボーボボは軍艦のことを、今現在確かに己よりも強いと認めていた。
どちらが伝承者になるかは解らない。軍艦の方が今の時点では強いことを認めざるをえないが、もし己が伝承者になったのならば、例えならなかったとしても彼を超えて強くなろうという気はある。
一番の親友。一番のライバル。
毛の王国の掟や伝承者の話は、それとは別の場所に在る。
大人達は毛の王国の出身でない軍艦が真拳を継承することはないと言っているが、そんなことはどうだっていいのだと思っていた。
何があっても笑っていられるのだと。
思って、いた。



継承者は、ボーボボとされた。

師が言うには、軍艦は毛の王国の出身者ではないからだということだった。
(出身、か)
ボーボボには己と軍艦の違いなどそうは感じなかったが、大人達にしてみれば大きな問題だということだ。
そんな形で判断されるのは決して喜ばしくはない。
軍艦とて、そうだろう。
実力は彼の方が上だ。ボーボボにも解っているのだから、彼自身もそう思っているだろう。
だが彼とは今までの様に、これからもライバルとなるはずだ。永遠のライバル。競い合う仲として、友人として、己も努力して彼を追い越していくことを目指せばいい。
軍艦を見ると、その肩は震えていた。
彼が認められていないわけではないといっても、やはりこんな形では納得のいかないものがあるのだろうか。
「……軍艦…」

ピシリ。

その手は、鋭く撥ね除けられた。

「触るな」

その声は、冷たく鳴り響いた。
痛みを感じるほどに睨まれた。
彼は、泣いていた。

初めて目にする表情。

その日はそれ以上話すこともなく、二人は別れた。


軍艦は、傷付いたのだろうか。
当然のことなのかも知れない。あれだけ努力していたのに。
けれども彼は肩書きなど無くても強いのだから、どうということはないのだ。彼は彼らしくあればいい。認められるだけの強さを持っている。ボーボボは自ら、自分は誰より彼のことを認めているのだと思っていた。
そしてこれからも彼は、強くなれるのに。
そんな風に、言えばよかっただろうか。
そんな風に言うことは、ただ彼を傷付けるだけだろうか。
軍艦が間違っているとは思わなかった。
だからこそ己がどうあれば良かったか解らずに、ボーボボは彼に弾かれた片手を見た。

どうだっていいと。
何があっても笑っていられるという感情は、
軍艦との間に確実に通じ合っていたものではなかった。






それから幾らもしない内に、毛の王国に侵略者が現れた。
毛狩り隊。
かつて暴力と恐怖により人々を震え上がらせ、今なお全世界を支配している彼らの手が毛の王国の内にまで及んだのだ。毛の王国と毛狩り隊は遠い昔から対立してきたが、その勢いは明らかにこれまでと違っていた。
大勢力による急襲を受けた毛の王国は壊滅寸前にまで陥った。
継承者発表以来顔を合わせていなかったボーボボと軍艦はその日、再会した。
『狩られた』毛の王国の住人達の中で。


「くそぉ、毛狩り隊のヤツらめ」
ボーボボは喉から声を絞り出し、繰り返し嘆いた。継承者という偉そうな名前が付いたところで何もできはしなかった。己の身を守りながらこの場所に着いた時、全ては終わっていた。
「くそ…くそ!よくも毛の王国を…!」
嘆いたところで何が変わるわけでもないのに、ただ、繰り返し。
座り込むボーボボの横に佇んでいた軍艦が、誰に言うでもなくぽつりと呟いた。

「滅んでよかったんだ」

ボーボボにとって、数日ぶりに聞く親友の声。
「こんな国…」
「なんだと!」
それは信じられない響きをもって、耳に届いた。
軍艦は冷めた瞳で、ボーボボでないどこかを見るようにして続ける。
「俺のことを認めない国など、滅べばいい」
そうして胸ぐらを掴むボーボボの両手を、ゆっくりと引きはがした。
ボーボボはそれをまるで感じないかの様にただ、震えた。



軍艦の気持ちを、本当は心のどこかで解っていたのかも知れない。
しかしそれは毛の王国の常識を持ち出せば仕方がないと説明のつくもので、ボーボボにとってそれが身近であったからこそ、そうであるからどうしたとどこかで割り切ることが出来ていた。

軍艦にとって、それは間違いなく理不尽だった。
その思いを通じ合わせるのには、二人にはあまりにも時間が足りない。



軍艦は知らぬ間に姿を消していた。
ボーボボは必死に走りながら、繰り返し軍艦のことを考えていた。始めこそ一発くれてやらなかったことを後悔したが、暫くする内に頭が冷えてきた。
あくまでも彼にとっては、この国は本当に己を認めない国だった。国の人々は、己を認めない連中だった。
だがボーボボにはそんなつもりは微塵もない。彼の妨げになるような、そんなつもりも無い。
それが。
それが、どれだけ伝わっていただろう。
頭の中に、己の前で初めて泣いた軍艦の表情が蘇った。

軍艦が傷付きながら己を鍛え上げて、努力して、認められることを願っている。
その為に、何ができただろうか。
この手は、己は何も出来なかったろうか。
出来るなどと思ってはならないのかもしれない。彼はこれから成長して、いつかは大人になって、ここであったことなど忘れてしまうのかもしれない。
だがボーボボには軍艦のあの目が、あの言葉が、どうしても忘れられなかった。
軍艦を恨むようなことがあろうか。彼は、あんなにも真っ直ぐで素直で優しいのに。
毛の王国の人間が悪いのかといえば、そうだとは頷けなかった。
ならば彼とのすれ違いの元凶は、ボーボボ自身にあったのかもしれない。

違う、と心の中に幾度も繰り返した。
しかし頭を過るのは、前に向いた考えではなかった。
己には軍艦の背中しか見えていなかったのだろうか。彼の背中を見つめて、時折彼が振り向けば笑顔を返したけれど。彼の目の前まで出て行って向き合うことのできた日があっただろうか。

(…俺は、そうしたかったのかな)

自分は彼の一番の親友であると、信じていた。裏切ったとも、思っていない。
だが何をどうしたら良かったのか、ボーボボには何も解らなかった。




この場所から、なんとしても逃げなくてはならない。生き延びなくてはならない。
それが、鼻毛真拳の伝承者となったボーボボの使命だった。
生き残った人間タイプの中にはボーボボより幼い子供もいる。
それでも生き延びて、広い外の世界で生きていかねばならない。
しっかりしなくてはならないのだ。今、彼の背中を探している暇が無いことは、己が一番よく知っていた。

ボーボボは、後ろを見ることを止めた。
振り切らねばならなかった。

目の前には歩かねばならない世界がある。そしてもう見えなくなった、軍艦の背中がある。
より成長できたいつか、彼の背中を見付けた時、彼に対して何か出来ることはあるだろうか。言えることは、あるだろうか。
それまで決して忘れまいと、ボーボボは己の心に誓った。


走りながらボーボボは、小さく予感した。
いつか遠い未来、己はまた軍艦と出会うだろう。
その時がきっと来る。
それまで、その先の未来の為にも、
生き抜かなくてはならない。












二十七歳のボーボボの言葉は七歳のボーボボには言えなかった言葉、理解できなかったこと、かと…
軍艦にしてみても八歳の時期があって、その後成長しても毛の王国の人間に対する印象は変わらず。
今の彼らと昔の彼ら。昔の彼らは決して、今の彼らにあらず。弱々しく、しすぎたかな…
でも彼は当時七歳の子供、だったというところ、が…いやでもボーボボの中身、なんですが。
……それを描くにはまだまだ私、未熟者だなあと、思い知りました…

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