小さなテレビから流れてくる幾つもの声の中のひとつが、
生きているということは移ろいゆくということ、
そう歌っていた。
永久にそこに在り続けるものなど何もないのだ、と。
うつろいゆくもの
首領パッチはひとり、散歩ついでに、先日毛狩り隊にやられたと聞く村の様子を見に行った。
怪我人が多いようならハジケ村からも手伝いを出す必要があるだろうし、毛狩り隊の動向が気になってもいた。
組の連中には黙って村を出る。言えば危ないとうるさいだろうし一緒に行くと言うだろうが、たまには一人で道を歩きたい気分だった。
首領パッチには髪の毛はないのだから狩られる心配もない。毛狩り隊の一人や二人や三人や百人、どうにだってできる。
村の状況はよいとは言えなかったが、幸い皆元気でやっていた。
手当や片付けも村の中だけで事足りる状態であるようだった。
毛狩りという言葉が近くなればなるほど人は怯えていたものだったが、いざやられると開き直ってしまうのか皆前向きなものだった。
首領パッチは話を聞かせてくれた村人に礼を言って、手を振って別れた。
村人は、ハジケ祭には行くよ、と言っていた気がする。
首領パッチは笑った。人が多く集まる、賑やかな催しは好きだった。
準備している間が何より楽しい。ハジケている間も当然楽しいが、終わりに近付いていくと思うとつまらなく感じることもあった。ハジケることはいつでも出来るが、やはり祭は特別だ。
いつか始まり、
いつか終わるからこそ祭なのであろうが。
遠回りをして、普段とは違う道で帰ろうと思った。
何故といえば特になにもない。強いて言えばそこにこれまで歩いたことのない道があったからで、迷おうが別に構わなかった。
いつか帰り着ければいい。
そうでなくても、その時のことはその時考えればいい。
知らない道の空気は、新鮮な匂いをもって胸を軽く打った。
道の途中に小さな一軒家があった。
周りには家も何もない、草原の中にぽつりとまるで取り残されたかのように、ひとつ。
ところどころぼろけていて、元々立派な造りではなかったのだろうが、誰も住んでいないのだろうと見ていて感じた。
何故か、惹かれた。
もし中に人が住んでいたのならばそれでもよかったし、
住んでいなくても、別にいい。
ただ、惹かれた。
「ちわぁ、ハジケガスでーす」
扉には鍵がかかっていなかった。
鍵など、付いてはいなかった。
家の中は薄暗く、殆ど何もなかった。
机や椅子が埃を被り、あとはガラスのない窓と小さな棚らしき影が見えるのみ。
元は人が住んでいたのだろう。
だが今はもうその人もなく、ここは忘れられた家。
去って行った者達も家ばかりは連れて行けず、置き去りにされたのだ。(そこにありつづけるものなど、なにもない、だったっけか)
家そのものが残されているじゃないかとは思ったが、恐らくそれもいつかは朽ち果てていくのだろう。
やはりそこに在り続けるものは、ないのかもしれない。
この家には鍵は付いていなかった。
しかしもし付いていて、きちんとかかっていたとしても、あの男が隣にいたならばそれは意味を持たなかったかもしれない。
何も言わなければこの家すら素通りしただろう。だが首領パッチがその鍵を開けと望むなら、その通りにしたかもしれない。
そういう男だった。あなたの側にいるのが幸せなのだとうわ言のように呟いて、
こうしろと言えば常にその通りにして、
他の連中といるところを見ればそう目立つこともないのに、
首領パッチと関わるとまったくもって己の命すら大切にしない男だった。
彼は言葉にはしなかったが改めて尋ねる必要もなく、
何よりも首領パッチのことを上にして、常に一歩後ろを歩いていた。
来い、と『許して』やれば、隣に来た。
そういう男だった。そういう男だったが、彼も今は己の後ろにいない。
隣にも、いない。
彼がいなくなった後も首領パッチの側には多くの存在があったが、
その男がもういないのだという事実は揺るがない。
その背中を黙って見送ったはずだった。
だが時折目を覚ました時、心の中で改めて男が手の届く場所にいないことを感じて、天井を見る。
天井の更に先には空がある。
その空の続く先のどこかに彼がいるのだろうが、
それを追いかけるために村を出て行こうとは思わなかった。
だがいつか、旅に出よう、と思った時、その目的とは別にして彼の姿を探すのかもしれない。
探さないかも、しれない。
今、その時にどうなるかは解らない。
今、答えを出してもその時には変わっているのかもしれない。ああ、そうか。
そこに在り続けるものがないということは、変わらないものはないということだ。
振り向いたが、男の姿はそこになかった。
小さな家の中には、もうひとつ忘れ去られたものがあった。
小さな木の椅子の上に、座り込んだ人形。
軽く触れれば埃が緩やかに舞った。
「お前、ひとりか?」
彼もまた、この場所に残された。
いつかこの家とともに朽ち果てていくもの。
世界という器の中、最後には失われるもの。「ずっとひとりでここにいたのか」
一人だが、独りではないのかもしれなかった。
朽ち果てることではなく、かつての持ち主が迎えに来ることを待ち続けているのかもしれなかった。
変わりゆくものなどないとしたら、かつて人形をここに置き去りにした誰かも戻ってこないとは限らない。
いつか。
それは、いつだろうか。首領パッチはその手に、人形を取った。
思っていたよりも軽かった。
よく見れば虚ろだと感じていた目は輝いているように見えるし、乾いていると感じた表情は引き締まっているようにも見えた。「お前、なかなかの男前じゃねえか」
元の持ち主はなぜ彼を置いて行ってしまったのだろうか。
いつかは戻ってくるのかも知れないが。
だが、今現在の話をすれば、彼は置き去りにされたのだ。
首領パッチは、彼とともに村に帰ることにした。
持ち主の帰りを待つか否か問うたが、黒々とした瞳の輝きが返ってくるのみだった。
「名前、なんてーんだ?」
その手を取って片手にぶら下げながら、道を歩く。
「一息で、呼べるのがいいな。…うん…あ、か、さ…」
村に帰ったら組の連中に、彼を紹介するのだと決めていた。
あの男は、いない。
旅立ってしまったから。
望むのか望まぬのかよく解らない悲しそうな顔をして、別れを告げてきたのだから。
「…は…ま…や。…やっくん」
置いて行かれた彼の元へ、いつか誰かが帰って来る日はあるだろうか。
解らない。
明日はまだないから、明日というのだ。
いつまでもひとつの所にとどまるものは何もない。
動きながら生き続け、いつかこの世界からも去っていく。
明日か。遠い、未来か。「やっくん。…よし、それがいいな。やっくん」
誰かがあの家に帰ってくる時、彼はもうそこにはいない。
あの小さな椅子の上で待ってはいないのだ。
いつまでもひとつのところにとどまるものは、ないのだから。
「やっくん。よろしくね、あたしはパチ美」
来る者は、いつまでもそこにいるとは限らない。
去り行くものは戻らないとは限らない。
男は言った。
いつかあなたの所に戻ります、と、繰り返した。
明日のことなど誰も解りはしないのに、何度も。
それはきっと、誓いと呼ばれるものだ。
戻ったとき、首領パッチが村にいなければどうするだろう。
あなたの所に、と言うのだから、探しに来るだろうか。
いつか。
そのいつか、は、いつ来るのだろう。
その時は彼を、男に紹介してやるのだと今決めた。
逞しい男になっていたら褒めてやろうと思った。
そうであってもハジケリストとしてはまだまだだろうから、その手を引っ張って、引きずってやろうか。
その手を。
離さないで、やろうか。
変わらないものは何もない。
けれども、永久の別れが訪れなくてはならないという決まりはない。
未来のことは誰にも解らない。
未だ来ていないから未来というのだ。
この手で掴み取るものを、未来というのだ。
一人で出かけた首領パッチは、二人で村の入り口をくぐった。