領域
「痛ッ」
「あ?」
ちくり、ぷつん。
聴覚に拾えるほどの音など鳴らなかっただろうが、頭の中にはそれが響いた。痛みが走り抜けたと思えば、指先にぷくりと血がふくれて第二派がくる。
染みる。
「刺したのか?」
「…した」
「刺すなつったろ」
「俺じゃなくてお前んとこの花がー」
「不注意だろうが。ケチつけてんじゃねーよ」
菊之丞は呆れたように、小さく傷のついたこちらの指先に視線を送った。
確かに言われはした。
気を付けてもいたのだ。
バラという花はどうしてどこまでもトゲばかりたくわえているのだろう。綺麗な薔薇には棘がなんだのという言葉もあるが、棘がないに越したことはないと思う。
「止まったか?」
「拭いたらもう出なくなった」
「大したことねーんだな」
「…まだちょっと痛いかな」
「舐めてやろうか」
「それはいい」
舌打ちなどではなく、小さく笑い声が返ってくる。
別に向き合っているのではないのに、菊之丞にばかりこちらのことが見えているようだ。
思って、コンバットはなんとなく身体の向きを変えた。
彼の背を斜めから見ていたのが、背中合わせになる。
「薔薇ってのは棘がついてるもんだ。学んだか?」
「俺だってバラくらい知ってる。…こんなに蔦がからまってると、目がまわってくるな」
「まわしてろ」
「よし。意地でもまわさん」子供のようなことを言い合いながら、コンバットの視線は薔薇の花々へと向かった。
Gブロックの中の一室。
何をするでもなく、ただ二人でそこにいるだけ。
別用の帰りに訪ねて、たまたま菊之丞がここにいたために通された。彼は花の手入れをしていたようだった。
それももう終わったのだろうが、くだらないことを話している間にこの場所で時間が経っていってしまったのだ。
とりあえずなんとなく花に触れるのはやめようと、言葉の代わりに溜息だけ漏らす。
「…ここ」
「なんだよ」
「甘いな」
菊之丞にとっては気に入りの場所なのだろう。
気に入りの場所にいる時の彼は、どこを見ている様でもなく普段より少し穏やかだ。
気に入りの場所にいる時の彼は、そのくせ自分のことは捉えているらしい。
どうしたらいいのか何となく解りかねる。
「匂いが?」
「ああ」
甘い。
例えばこんな、甘い匂いのする場所では戦う気にもなれない。
花を使って戦うことの出来る菊之丞の方が珍しいのだ。
「…ちょっと水っぽい」
「そりゃそうだろ」
「そういうものか?」
もしかしたら自分はそれを踏みつぶしたことがあるかも知れない。
枯らしたこともあるかも知れない。
菊之丞と出会う前には、考えたことはなかった。
こんなに甘い匂いを『感じた』こともない。それは正しくもなく、だからといって過ちでもないのだろうが、こうした場所はなんとなく居心地がいいとはいえなかった。
それでもだんだんと慣れてきたのには訳がある。
菊之丞は時折気まぐれに、自分をそういった場所に引っ張り込んできた。
彼の生み出す意思のある花の中だったこともある。もの言わぬ、しかし棘を持つこともある、今目前に存在するような花の中だったこともある。
そして彼はやはり気まぐれに、
自分に触れる。
こちらを封じるように手を伸ばしてきて、力では勝っていたとしても意思の上ではやられてしまうのだ。
そうしている時の菊之丞は底が知れない。
きっと彼から見れば自分はただ単純で、どんな重装備をしても容易く暴かれてしまうのだというどうしようもない予感すらする。
諦めすら甘いと感じたなら終いだ。
その時はもう、こちらが先に酔わされている。
「俺には、向かないな」
「お前、昔っからそう言ってばっかりだな」
「お前のせいだぞ」
「そうかよ」
「…ああ。お前のせいだ」
苦手なのも、苦手なのに回避しきれないのもお前のせいだ。
「俺のせいにしたきゃしろよ。それより情けありだのなんだの言うなら、花の名前ぐらい種類で括らないで覚えてみやがれ」
「なんでそれが関係あるんだ」
情けあり。
確かに好む言葉ではあるが、コンバットの中では花の名とは結びつかない。
「情けには情緒だの風流だのって意味もあるんだぜ」
「あ、そうなの?」
「知らねーのかよ?」
菊之丞はまた笑った。
これは『どうせ知らないだろうと思っていた』笑い、だ。
知っていた気もするが、覚えていないのだから確かに知らないのと同じだった。
「悪かったな。俺が掲げてる情けは別だ」
別にそれだけが全てではない。
体の向きを変えて菊之丞の方を向くと、彼もこちらを向いた。
「なんだ」
「…ああ」
花に満ちた部屋。
こんな場所で彼は、普段とは少しだけ異なって見える気がする。
それでもよく見れば彼は彼だ。
あまりに溶け込んで、自分だけが取り残されたように思えるだけなのかも知れない。そんなことを考えていると彼はこちらを見て、目を逸らせば手を伸ばしてくるのだ。
体格の良さは確かだが、その手は自分のものと比べて白くしなやかに見える。
彼は自分に触れるのを躊躇しない。
「…心遣いとか、思いやりとか。義理だとか、そんなのだ」
「…ふーん」
「疑うな。人としての感情ってのもあるんだぞ、つまり人間らしくってことだ」
「煩悩のかたまりが何か言ってやがるな」
「何が悪い」
「あー、それはそう来ると思ったぜ」
菊之丞は大袈裟に笑った。
コンバットも思わず、笑みを零す。
「お前こそな」
「…よく知ってるな」
よく知らされた、などとは言い返すまい。
笑んだまま、彼の表情が少しだけ変わった。
それを感じられるのはほんのひと時だ。自分ほどそれを表に出さない彼の、『その瞬間』。
「…さっきの傷、見せろよ」
「…ああ」
その声色に引かれるようにして、ゆっくりと指先だけを彼の方へ伸ばした。
歩み寄りはしない。彼から言い出したのだから、その必要はない。
考えるまでもなく彼の方から一歩近寄って来た。
「もう止まった。…言っただろ?」
「血の痕」
「…そう、だな」
指先に絡むようにして細く、乾いた赤が伝っている。あの後また流れ出たのかも知れない。
「止まってねえな」
「ああ」答えると同時に、その場所だけ柔らかな温もりに包まれる。
「……」
「…」
「…もう、痛くないのに」
やがて指先は温もりから離された。
血の痕を失ったそれは、たった今そこに振れている菊之丞の手と比べてもやはり違う。
それは例えば悲しいのでなく、どこか気恥ずかしい。「目ェまわしてはねえんだろうな?」
「見えてるつもりだ」
「本当に?」
「ああ」
「見せろ」
ぐ。
前触れもなく、引き寄せられる。
服を掴み合うようにして、抱き合うというよりは組み合った。
互いに笑みを交わし合う。
「まわってたら、どうする気だ」
「責任とって介抱してやるよ」
「…そりゃ有り難いな」
対等に見えて、それは確かに対等なのだろうが、しかしコンバットは薄らと自分の方が追い詰められているのだと感じていた。
ここはもう彼の領域だ。
「情けのもうひとつの意味、知ってるか」
「…なんだ?」
言葉を投げ合いながら、いつの間にか菊之丞の腕の中に捕えられている自分がいる。
彼はこうして抱くのが上手い。支えるだけでなく、逃さない。
コンバットは触れ合うことが好きだったか、抱くことも好きだったが、菊之丞に触れられる瞬間には普段のいつとも違う感覚を覚える。
「恋心と、色事だとよ」
「…へぇ」
「似合いだな。覚えとけ」
耳の奥に、囁きが通る。
「そん、なに…似合うか」
「ああ。…特に、今はな」
今の自分は普段と、どれだけ異なっているのだろうか。
「…捕まえときたくなるぜ」
「…どうやって」
「締められとくのと、絡まれるのとどっちがいい」
「棘の刺さるのは御免だ…な」
「なら、刺さらないようにしてやる。それ以外は文句なんざ言うなよ」
「…何があるんだ?」
「…疼くぐらいの痛みには耐えてみろ」
彼は今この瞬間は、その指先すら動かしていない。
それでも逃れられる気はしなかった。
美しい花は棘を持つ。
その棘をも含めてその花という存在、そうである故に美しい。
棘を持たない花もある。
コンバットはそのどちらのことも、よくは知らなかったが嫌いではなかった。
「…なあ、菊之丞」
「なんだよ」
「情緒っていうのは、感慨だとか独特の味わいだとかそういうのだろ?」
「ああ、そうだな。で?」
「…俺が持ってないとは限らないぞ。そう思わないか」
「知ってんじゃねーか」
「今、思い出した」
「…遅い」その指が、動く。背を撫でるようにして伝う。
まるでこの身をゆっくりと絡めとるように。
「な、あ」
「…あ?」
「俺の前から…何も言わずにいなくなる、なよ」
「…急になんだ」
「…言ってみただけだ」
この花の洪水の中に飲み込まれはしまい。
自分のように、泳げぬ水を好みもしないだろうに。
そんな不安を抱いたのは、
まだこうして触れられるようになってそうは経たない頃のこと。
もし彼がいなくなれば、自分は駄目になってしまうだろうか。
それは今現在には解らない。解るはずもない。
その後の言葉は塞がれた。
ここは少なくとも戦場の、外だ。