俺が目にした光景は、まさに『その瞬間』だった。









確かになれないもの




魚雷ガールを呼びに行く役目を、なんとなく引き受けたのは天の助だった。
もっともそれに適していると思われるソフトンはたまたまいなかったし、女同士という点で幾らかは気兼ねのないであろうビュティも戻っていなかったのだ。
戦闘態勢に入っていない時の彼女は、こちらがふざけたり下手な真似をしない限りは理不尽な粛正もしてこない。
だからそれはどうということはない役割の筈だった。

だが、何ごとにももしもの時というのは存在する。


その『もしも』に居合わせてしまったなら、その時はもう己の不運を呪うしかない。




天の助が目にした光景は、まさに『その瞬間』だった。






見えたと思った魚雷ガールの後姿が、声をかける直前に一瞬揺らいだ。
見間違えかと戸惑えば、続いて激しい光が視界を襲う。
彼女の顔はおろか姿さえも見えなくなった。

それは瞬間的なものに過ぎなかったが、目の前が見えるようになってもやはり彼女の姿が捉えられることはない。
『彼女の姿』はそこになく、
刃の様な髪を背にまで光らせる男の背中がそこに在った。
天の助は驚愕で反射的にへたり込み、逃げ出すという選択肢を紛失した。


男の、『OVER』の体がゆっくりとこちらを向いてくる。


スローモーション。まるで何かの映像でも見ているようだ。
そんな現実逃避をしてみても、天の助の座り込んだ地面と彼の立つ地面は確実に繋がっていた。
(……あーあ…)
引き攣った声すら出てこない。仕方がないので心の中でだけ、現状を呪ってみる。
何にしろもう遅いのだ。
OVERの鋭い瞳がこちらと合わさってくる。
せめて目を瞑ってそれを避けようと思ったが、それすら遅かった。

「………」
「……」

無言。
唐突すぎる現実に対して放ってやれる言葉など無い。
しかし予想外に、あちらからも同じものが返ってきた。
無言。
ここに天の助がいることに関しては、OVERにとって恐れる事態でもなければ言葉を失うような状況でもないだろう。
しかし、不自然な沈黙。

それだけではない。OVERはこちらにゆっくりとその身を向けた他に、何ひとつ動こうとはしなかった。
たった今もそうだ。
体も視線も天の助の方を向きながら、無言に真っ直ぐ佇んでいるだけ。
「…あ、れ?」
そしてもうひとつ、おかしいことに気付いた。
OVERの視線の先には自分がいない。確かに視界には入っているはずだが、まるですり抜けてしまってそこに何も見えていないような目つきをしている。
もしかすると風景すら捉えていない、色のない目。


まるで自我を止められてしまったかの様な姿。


「…OVER?」

どうにか意味のある言葉を放てるにまで回復した口は、思わず彼の名を呼んだ。
その刹那。
OVERがはっとした様に、体をびくりと動かす。

「…天の助。テメー、そこで何してやがる」

同時にその視線が天の助を捉えた。
緩く握られた拳は今にも鋏を呼び出してしまいそうだ。
足も動いて、佇むではない構えの姿勢に変わっている。
「…え?いや…!」
再び戻ってきた唐突な現実に、天の助はまたも身を竦ませた。
まるで止まっていた時間が動き出したような感覚。
何も言わければよかった。心の声が後悔の悲鳴をあげるが、もう止まらない。
「いい度胸だ。今度こそ殺されにきたか」
「え!?」
天の助の無言をどう曲解したか、OVERは口元を笑わせて本格的に構えた。同時にその手に大鋏が現れる。
久方ぶりに目にするそれは、以前にも増して鋭く見えた。
「うわっ、切れ味よさそー…」
「確かめろ」
「…えぁ、いやいやいやちょっと待って!ノー!ストップ!」
どんなに見事な刃でも斬られて楽しいことはない。
斬血への一歩を踏み出したOVERからじりじりと後ずさり、天の助は首を振った。
「俺、OVER様に用があるんじゃないのよ!解って!解れ!」
逃げられそうにはない。
こうなればもう、彼の中での判断に期待するしかなかった。
ソフトンのところに帰りたい、おふざけを滅したい魚雷ガールとしての部分に頼るのだ。
そうして話を逸らす、もとい解ってもらうしか無傷で生き延びる術はない。
「俺が用あるのは…」
「…俺の真の姿、か?」
「え?」
OVERが無表情で問うのを聞いて、天の助はきょとんと肩の力を抜いた。
「あ、うん…」
あまりにあっさりとして、それはそうかも知れないが、拍子抜けする。
やはりOVERであろうと魚雷ガールであろうと根本的には同じなのだろうか。
「…そ、そうです。そうなんです!そうなんですとも!」
そうとなれば話は早い。しつこいぐらいに繰り返し、どうにか平和的な方向へと誘導する。
が、OVERはその誘いには乗らなかった。

「…テメーらと行動してるんだろうが、そんなことは知るか」

代わりにひとつ、呟く。
天の助は続けようとした言葉を失って、未だ地面に腰より下を張り付けたまま間の抜けた顔をした。
「…そりゃ、そうだけど」
そんなことは知ったことではない、というならまた嘆くだけだ。
だがOVERは、魚雷ガールの行動をまるで他人事の様に言う。
「知らなかったの?」
「俺には関係ねぇ」
「いや、そうなの?」
彼がそうと言うならそうなのだろうが、これまでの想像を覆された気がして天の助は黙った。

魚雷ガールとOVERは確かに別物だ。
それでもてっきり、彼らはその記憶を共有しているものだと思い込んでいた。
例え完全にでなくとも、意思そのものが異なることがあっても、『互いのこと』はよく知り合っているものだと。

「なら、なんだ」
「いや…そりゃ…」
「助かると思ったか?」
「ちょ、ちょっと」
「そりゃ残念だったな」

OVERが、笑う。


しかし怯える以前に、幾つもの疑問が沸いてきた。


OVERは魚雷ガールが何を思い、何をしているかを知っているのだろうか。
ボケ殺しであることは知っているのだろうか。
ソフトンに恋をしていることを知っているのだろうか。
そのためにボーボボの味方のようなことをしていると知っているのだろうか。
自分達に揃って、先生扱いされていることを知っているのだろうか。
知っているならばどう思っているのだろうか。

「さあ、覚悟し」
「…待った!」
「なんだ。遺言でも残すか?」
「い、いや!そーじゃなくて」
片腕で制しても、OVERにはちっとも退く気配など無かった。
辛うじてその動きを止めたままにしてくれただけだ。
「…お前、それでいいの?」
「あぁ?」
「魚雷先生だった時のこと覚えてないのか?じゃ、どうしてここにいるかも解んないのか?」

自らの言葉に、思い出されたのは先程の彼の姿だった。
魚雷ガールとの、その理由は解らないが『交代』の直後。
天の助には長く感じられたが実際はどれほどだったか解らない。そこには、空白のような時間があった。
姿のみバトンが渡されながら、意識はそれに追いつけていない、恐らくは『ほんの数秒』。


その間、その体の中では何が起こっていたのだろう。
どうしてかそれが気にかかる。


「テメーに何の関係がある?」
「いや、ないけど…」
「……」
OVERはその表情に笑みを浮かべたまま、鋏を横一閃に軽く走らせて降ろした。
「!!」
「斬ってねえだろうが」
思わずかたく閉じた瞳を恐る恐る開くと、彼はただ笑ったまま己を見下ろしてきている。
「…天の助。俺の真の姿がどれだけ強いか、知ってやがるな」
「…そりゃもう」
OVERが自信を持つだけはある。
ボーボボの作り出した世界の中で飛べなくなった時、記憶を破壊された時を除けば魚雷ガールがどうにかなったところなど思い付きもしない。
記憶を壊されたといっても戦えなくなったわけではないし、今の魚雷ガールにはボーボボの技すら何の意味も持たないかも知れない。考え方によってはソフトンが唯一の弱点とも言えるが、それも本当に『弱点』なのかは不明だ。
魚雷ガールは、強い。
「強い」
素直に頷くと、OVERの笑みが深まる。
満足そうだった。

OVERは強いが、魚雷ガールはそれよりも強い。
OVERにとってはそれが自分自身の真実なのだろう。だから、笑う。
魚雷ガールもよく見るとOVERだった時の記憶を残しているのだ。だからボーボボとも戦ったし、思い出したように自分、天の助に対して厳しい態度を取ったりする。
けれどもそれはOVERではない。
魚雷ガールにとってOVERは何だというのだろう。

仮の姿。
何かがあって、必要になったもの。
影。
自分の記憶を残さない、表から見れば別物の、しかし奥底のどこかでは繋がった、
特殊な存在。

「だろうな。くだらないモンは全て吹っ飛ばす」
「……」
「俺は俺でいる時にしたことをするだけだ」

だからOVERは魚雷ガールへの変化を待ち望む。
真の姿を目の前に控えて、期待に満ちた顔をする。
積もり溜められた怒りの果てに、総てを覆す存在。
OVERにとっての魚雷ガール。

それがどんな姿、どんな存在であるかをどれだけ知っているのだろうか。
記憶が残らないことを疑問には思わないのだろうか。
違う。疑問も何もないのだ。
OVERにとってそれは当たり前のことなのかもしれない。
彼は、『魚雷ガール』の中に存在していることになるのだ。
だからそこには疑問も何もない。
目を覚ました時、自分の置かれた現状に対して抱くのは違和感ではない。残された記憶と現在の照合、そして調整と理解を必要とするのみだ。

OVERは魚雷ガールを真の姿と呼ぶ。
彼自身も自分、魚雷ガールも自分。けれども魚雷ガールとしての記憶は残らない。
魚雷ガールの中にはぼんやりと、彼の記憶が残されている。


いつかそれが一緒にならなくてはいけなくなった時、
もしくは『魚雷ガール』に仮の姿を持つ必要が無くなった時。

OVERはそれに抗うのだろうか。



「……OVERがしたいことって、ナニ?」
録画部分を放送し終えたビデオのように、きゅるきゅると音をたてて思考が止まった。
その代わりに小さく言葉が漏れる。
「さあな。まずはテメ−をブッ殺す」
「…俺?」
「テメーみたいなヘタレなんざ、真の姿になる必要もねぇ」
「俺のこと、殺すの?」
「当然だ。望むなら今す…」
「殺すのか?絶対殺す?俺が死ぬまで俺のこと斬る?なあ」
「…あぁ?」
天の助自身にも何がなんだかよく解らない内に、次々と言葉が外へ出ていった。

魚雷ガールとしての記憶を残していないOVER。
それが『彼ら』の間での決定事項ならば口出しするも何もない。
けれども彼の言い分はあまりに真の姿を信じきり、今にもそこに溶けていってしまいそうだ。
魚雷ガールにとってOVERとは何なのだろうか。
いつか彼女が『OVER』を必要としなくなった時、今目の前にしているその体の中では何が起こるのだろう。

OVERと魚雷ガールは別物だと、なんとなくずっとそう思っていた。
ボーボボや首領パッチ、それから恐らく田楽マンは二つの存在を同じだと思っているらしい。ビュティやヘッポコ丸は解らない。魚雷ガールに好かれたことのある破天荒や、好かれているソフトンはどうなのだろうか。
OVERは彼らのことをどんな風に思っているのだろう。
いつだったか、彼は破天荒の名前すら覚えていなかったのだという。


「OVERはOVERだよな?お前俺のこと殺すんだよな?諦めないよな?忘れないよな?」
「…何を」
「なあ!」


『痛いこと』は決して好きではない。
だから痛みを与えてくるOVERという相手のことも、本来ならば望むはずがない。
けれどもここで彼を頷かせなければ、ふっと見えなくなってしまう様な気がする。
それを想像するとなぜか胸の奥が熱くなった。

悲しく、なった。


それは確かに目の前に在るのに、
まるでどこにもないように。


「なあ、答えろよ!」


OVERがここにいる現実。
それが決して揺るぎないものではないという現実。

彼の言葉からそれを目の当たりにしたのだと思うと、止まらない。
魚雷ガールにとって自分は、時折憎くなる出来の悪い生徒でいい。
同時にOVERにとっては、いつか殺してやろうとずっとそう考えている相手でもいい。
それでいい。
彼らの互いへの思いも、自分が口を出すものではない。

けれども、その先に生まれるかもしれない現実を思えば思うほどに。

「…な、」
「…煩え!」
自身でせき止められなくなった言葉は、その対象であったOVERの声によって塞がれた。
鋏は踊らない。
代わりに座ったままの天の助の横腹に、重くも軽くもない蹴りがひとつ入った。
「うわッ」
「黙れ」
「……黙り、ます」
言われなくても、どうにか冷静さは取り戻しつつある。
思わず放ってしまった言葉は戻らない。天の助自身もどうしてあんなことを叫んだか、もう解らなくなっていた。
「…でもさ」
それでもまだ身の内に、抑えかねた激情の欠片が燻っている。
OVERは目の前にいる。あまりにも、自分の知っているOVERがいる。
短気の様でそうでないようで、自分を斬り刻もうと追い回し、そしてボーボボといえば敵である。
それが逆に、未だに辛い。
「そのツラをやめろ」
降ってきたOVERの声は、思いのほか鋭さを含んでいなかった。
彼は自分から放たれた言葉をどう思ったのだろう。
見上げてその目を見ても、それは解らなかった。光と殺気を湛えた、間違えなく彼自身の瞳。
「…OVER」
「どう斬りつけてやろうか、腕が疼く」
「…やっぱ、斬るんじゃん」
「言っただろう。テメーを殺すのは俺だ」
天の助はOVERの言葉に掠れた声で返しながら、その表情からただ目を逸らせずにいた。

目を離してはならない。
自分を殺すと言った『OVER』から、片時も。

その表情は笑みでありながら、魚雷ガールを語った時のそれとはどこかが違っていた。
それを感じると幾らか楽になったような気がする。
例え向けられている視線がどれだけ鋭いものであったとしても、寧ろそれがはっきりとしているだけ不安定ではない。
その刃は確実に、こちらを捕らえられる場所に煌めいている。

「…天の助」
「なに」
いつの間にか少しだけ乱れていた呼吸を整えながら、未だ掠れた声で返した。
穏やかであろうと思う時は穏やかなのだ。どちらかが、主に天の助がスイッチを押せば繰り返す掛け合いが始まる。
次に彼からどんな言葉か放たれるか、それは読み取れはしなかったが。

「お前、いつから俺を見ていた?」

その問いの意味が一瞬よく解らなかった。
記憶を辿ると見つかるのは、魚雷ガールがOVERに姿を変えたその瞬間だ。
「…いつから?」
「どうせ間抜けなツラをしてやがったんだろう」
OVERがまるでどこも見ていないような顔をして、意識だけ眠らせてしまった様にして佇んでいたあの時間。
いつから、という言葉で遡るならば、まだ魚雷ガールがそこにいた時から。

「…ずっと」


彼はそれを覚えているのだろうか。


「ずっと、だと?」
「ずっと」

構わず繰り返すと、渦巻くものが込み上げた。
彼が追う、自分が逃げる、馬鹿にする、馬鹿にされる。
繰り返すそのはじまりなどはっきりと言い切ることは出来ない。
自分が彼に対して下手な真似をして、彼は自分の存在だけまるで狙いをつけるようにして覚えた。
どちらも合図ではなく、しかしどちらも揃わなければそこですれ違っていただろう。

「ずっとだ」
「……」
「ずっと、ずっと、ずっと」
「煩えッつってんだろ!」
「きゃー!」

叫びながら、天の助の表情は勝手に笑っていた。
魚雷ガールはソフトンに向かって愛を運ぶ。OVERは自分に向かって、執着やらあまり有り難くない殺意やらを運ぶ。
魚雷ガールはよほど機嫌が悪くなければ、自分のことを足蹴にしたりはしない。
その執着や殺意は彼女から受け継いだものではない。彼から生まれ、彼の中に自分が生み出し、そして逆に欠片ほど引き継がれたもの。
そのまま持ってきたのではない。そのまま吸い取られたのでもない。


「…チッ。バカが」
OVERはひとつ溜息をつくと、天の助に背を向けた。
「…んぇ?どこ行くの?」
「さあな」
「えー、でも俺…あ、いや待てよ」
魚雷ガールを連れて来ることは、どうやら出来なくなってしまったらしい。
立ち上がりながら首を傾げる天の助に対して、OVERは背中を向けたまま呟く。
「いなかったとでも言えばいいだろうが」
「マジで?」
「ならテメーがここで真っ二つになるか。そうすりゃそんなことしてる場合じゃなかったとでも言い訳がつくぜ」
「…それはイヤっ!」
即答する。
と、OVERは一瞬天の助に横顔を向けてにやりと笑った。
「天の助」
「は、ハイ」
なんとなく身構えながら返事をする。
しかし刃は飛んでこなかった。代わりに、まるで刃の様な長い髪が翻る。


「次は殺す」


言葉とともに、彼の姿もどこかへ消え去った。



「…OVER?」

がさ、と小さな音がする。
どうやら何処かへと走り去って行ってしまったらしい。
「…そっか。あいつの部下、忍者だったもんなあ……」
思わず忍装束のOVERを想像して笑みを漏らしながら、天の助は彼の背のあった場所をただ見つめていた。

魚雷ガールを連れ帰ることは出来ない。今は彼女ではなく、OVERがそこにいるからだ。
OVERを連れ帰ることは出来ない。彼はどこかへと去っていってしまった。
どちらかが表に出ていて、その時戻りたいと思ったならば戻って来るのだろう。


そうであればいい。
そうであれば、いいのに。








戻ると、自分と魚雷ガールを除く全員が既にそこに集合していた。
魚雷ガールはどこを探してもいなかったと言うと、皆は不思議そうな表情でしかし納得してくれた。
大切な途中経過を省いているが嘘ではない。魚雷ガールには声をかけそびれて、その後は探しても見つからなかったのだ。

OVERが六度怒って魚雷ガールになった時、彼女はまたここに来るだろうか。
きっと来るだろう。その時は彼女を彼女として迎えよう。

OVERがまだOVERのままである内に、もしかしたら彼はここに来るだろうか。
来たならば自分はどうするだろう。調子に乗るか怯えるか、その時にならないとその時の気分は解らない。

魚雷ガール。
彼女はOVERについて、彼女なりの考えを持っているのだろうか。質問すればその答を聞くことが出来るだろうか。
厳しいけれど優しい面もある、滅茶苦茶な面もある、恋もする。どこか本当に教師の様な彼女は一見OVERとは結びつかない。

答を聞くことができるかというよりは、自分がそれを尋ねることができるかが問題だ。

思いながら天の助は、ヘッポコ丸の投げてくれたジュースの缶を受け取った。
買ってから暫く経っているであろうそれは、しかし未だ冷たい汗を薄ら吹き出している。
缶とそれを持つ自分の手を見ながら、天の助はひとり黙って様々なことを思い出していた。




自分が生まれたのは工場だった。
幾つもの仲間と同時に、流れ作業の中で加工されてひとつの塊になった。
なぜこうして呼吸をして、言葉を発する命になったのかは覚えていない。
始めの頃は辛いことばかりを数えた。
知らない内に、『普通の食物』とは違ってしまったのだと。

けれども時折逆に、自分という存在がなくなる日を思うこともある。
その時、自分はただの心太になるのだろうか。生きてきた時を背負って朽ち果ててしまうのだろうか。
その日がいつやって来るか、それは自分自身ではまったく解らなかった。
いつ来てもおかしくはない。
本当ならば自分は呼吸をしない。喋らない。意思を持つはずもない。
いつ消えてしまってもおかしくはない、

確かにはなれない存在。




「ん?天の助君、なんか言った?」
「…や。なんでもない」



なぜか自分は彼に喧嘩を売って、鋏を喰らわされ、恐れて、馬鹿にして、馬鹿にされて、それを繰り返す。
彼はひとつの人格だ。
そこに在る、ひとつのもの。
ならば彼はどうして生み出されたのだろう。魚雷ガールは彼をどんな風に思っているのだろう。

並べて考えてみても、幾つものことが異なっている。
その度合いを比べることなど出来はしない。
そう感じながら心のどこか、それを重ねてしまう己がいた。

今のままでもそれならばいいのに。






俺たちは、確かになれないもの。












そこにはいるんだけれど、同時にそこにあると言い切れないかもしれない…
食品だったはずがなぜか生き物になってしまった天の助の中には、それでも彼なりの『当たり前』があるかと思われます。
けれどやっぱりOVERとは違う。ハッピーエンドだかそうでないのか…
ある意味『いきる』の逆バージョンです。


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