そうして笑ったりを繰り返しながら、同じ場所へと辿り着くのは何故だろうか。
ランバダの言葉に幾らか気を楽にしてもなお、コンバットの意識の底ではマイナスの感情が燻っていた。
大したことではない。
大袈裟でもなんでもないのだ。
結果がどうであろうが、どうにでもなる。
そう何度繰り返しても納得できない。
自分自身、自分ひとりが納得しないのだ。
それは他者と共有できるものでなく、縋れるものでもない。
変わることなど無いのだから忘れてしまえばいい。
顔を覆い隠したいのなら、別の何かを用意すればいい。
そう考えては、それでは駄目なのだと思う。
あまりにずっと手元に置いていたから、こんなことになってしまったのだろうか。あれだけには替えがない。
そうでなくても自分は元から、失くすことが恐ろしくて堪らない質なのかも知れない。
たとえそれが何であったとしても。
望むものにはつい飛びついてしまう性分で、戦うにしても何にしても道具に頼ることを好む。
単にその方が面白いのだ。自ら何か生み出すのも決して不得手ではないが、既にそこにある何かの方により意識が向く。
固執しているといえばそうなのかも知れない。
(…何、考えてるんだろうな)
出来ると思われた僅かなことは全て済ませてしまった。
つまり、これ以上は考えつく手段すら無いということだ。
諦めへの入り口が見えてきた気がして、コンバットは思わず目を瞑った。
長い通路の冷たい壁の中。
ただ、静寂だけが訪れる。
そのまま、どれだけそうしていただろうか。
黙ったまま佇む身体を打つように、聴覚を震わせる声があった。
「…お前?」
それはあまりに聞き慣れた声の内のひとつ。
目を閉じたまま遠くへと沈みかけていたがゆえに、幻聴かと思われたほどだ。
ゆっくりと視線だけそちらにやる。
「……あ…」
「こんなとこで何してる」
「…い、や」
そういえば自分はどこまで歩いて来たのだったろう。本気で現実に引き戻されながら、自身に問う。
けれどもすぐに、それどころではないと感情が警笛をあげた。
『この男の目の前で』『こんな姿を』『あらゆる意味で晒してはならない』。気付かれる前に退避しなくてはならない。
ふらりと踵に重心をかけて、振り切るように後ろを向いた。
「おい」
「……ッ」
「…待て、コンバット!」
「…?」
逃げかけた足が、その一言に止まる。
恐る恐る後ろを向くと、バイザー越しの瞳が不可解そうに揺れてこちらを見ていた。
「なんだ、お前」
「……俺のこと、解るのか」
「は?」
「…解るのか?菊之丞…」
「なに言ってやがる?」
聞き慣れた声が響くのを、コンバットは内で何遍も反復させた。
それは決して不可思議ではない。
他の連中とて、気が付かなかったのではないのだ。
ただ、こんな状態の己が真っ直ぐに認識されたことが意識をそこに押しとどめる。
「なんだ?解るのかって…」
菊之丞が問い重ねた瞬間に、コンバットの身体からがくりと力が抜け落ちた。
「おい?」
「…なんでも、ない」
何かあったのかといえば、それはどうということではない。聞けば彼とて、彼だからこそ笑い伏せるだろう。
笑い伏せてくれるだろう。
その方がいいのかも知れない。
けれども、それを思うと恐ろしかった。見慣れた姿が断罪者の様に見えてくる。
こうして最後に出会った彼の、ふざけ戯れる己をよく知っている彼の、互いの距離の近い彼の、その一言がすべてを決定するのだ。「……なくした」
「あぁ?」
「失くしたんだ。ヘルメット」
彼の長い睫毛がさらに不可解そうに揺れるのに、やはり、と思った。
そんなことは見れば解らないではないだろう。そして、それが原因でこんな様子でいるなどとは思うまい。
「ほんの少し寝てる間にどこかへ消えて、探しても探しても…
……いや。手がかりもないのに、探したとは言えないか」
ハンペンに会った。ジェダに会った。宇治金TOKIOに会った。
ランバダにも会った。レムにも会った。
彼らは皆その行方など知ることはなく、それでも自分の前では気を遣ってくれていた。
彼ならば笑ってくれるだろうか。
笑い飛ばして、忘れさせてくれるだろうか。忘れられるだろうか。
どうしてこんなにも、じくじくと不安でいるのだろうか。
「…それで?ふらふら歩き回って辿り着いたのがここか」
「ああ。…くだらないだろ」
それは、コンバット自身にもとうに解らなくなっていた。
「笑えるだろう」
最初は大したことではないと思っていた。多少心許なく、そのために不安であっただけだ。
それが探せば探すほど、見付からなければ見付からないほどに深まっていくのだ。
鋭い歯車に巻き込まれて出られなくなったように。それを見つけられないという現実と噛み合えず。知らぬ間に落としていた視線を上げる。
菊之丞の表情を視界へと入れると、
彼は笑ってはいなかった。
「お前、自分でくだらないと思ってるか」
響いた声は普段の彼のものに比べ、低く感じられる。
それでもコンバットには幾度か聞き覚えがあった。
思い出す前に、ひやりとした感覚が駆け抜けていく。
「…笑えねぇんだろうが」
菊之丞は笑ってはいなかった。
ただ不思議なほど落ち着いた様子で、こちらの方を見ていた。
その声色が低い。「…俺は」
導かれるように、辛うじて思考が冷えきた。
彼には『見えて』いるのだ。
笑うこともできない、泣くこともできない、憤ることもできない、
惨めさを恥じる己が。「……ッ」
かたかたと、自分の中で何かが揺れているのを感じた。
感情が押し上げられようとしている。
例えくだらないと言われても情けないと笑われても、失くしたくはなかったのだ。
何を。
当然、恐らくは何も。
あれは大切なものだった。お守りと呼ぶことも出来たし、他の連中があんな風に反応するぐらいに常に身に付けていたのだ。
本当に、大切なものだった。
それだけならば寂しさを感じるだけで済んだかもしれない。
けれども見つからないことが、それ以上に『それすら見つけられない』事実が、そこから感じずにいられなかった己の無力さが、情けなくて堪らなかった。
例えそんな思考の繋げ方が子供の癇癪のようで、どんなに馬鹿らしくても。
これ以上彼の方を向いてはいられない。
今の自分には、それを隠せるものが何もないのだ。
顔に手をやりながら俯くと、直後。
気をやることを忘れた背に、温もりのまわったのを感じた。
「…情けねぇ」
「な…ん、で」
「ついでにまったく俺らしくもねぇな」背中にまわされた腕が、やや強引にぐいと引き締められる。
少しだけ硬く平べったいものも触れた。気付きそびれていたが、菊之丞はファイルケースか何かを片手に持っていたらしい。
「何でだかな」
「……」
「らしくねぇのが感染った」くしゃ、と慣れぬ感触がはしる。
その手が己の髪に触れているのだと理解した。
理解した瞬間に、糸が切れた。
自分の子供じみた甘え癖を嫌ってはいない。
露にするのは甘えさせてくれると解っている相手の前だけだ。
それも多くは、何かを抑えていた。
『理想』を追っているのだ。
甘えることと泣きつくことは自分の中で異なっている。
奥底のどうしようもない弱みを吐き出せぬまま、ここまで来たのだ。
いよいよ抑えきれなくなるのを感じて、コンバットは腕を解かぬまま顔だけ逸らした。
「…こっち向け」
「……濡れるぞ」
「なにが」
「お前の、服…」
自らの声に諦めの混じるのを感じる。菊之丞にはこちらの横顔ほどがまだ見えているだろうし、表情もはっきりと解るはずだ。
ぱたり、と。
雫が頬から離れていくのを感じて、またもう少しは頭の中がましになったとも思えたが。
「…あれ取って、そんなツラ見せるのは初めてか」
「…忘れて、くれ」
今なお継続しているというのに、忘れてくれとは我ながらよく言ったものだ。
目を閉じようとするとまた何か溢れてくるのではないかと思える。
「断る」
「……」
やや強引に、逸らした顔が引き戻された。
眦を柔らかく暖かいものが拭う。それを理解しても嫌な気はしなかった。
ただ、塩辛いだろうにと思った。
「…悪くないぜ」
涙に冷えた場所がだんだんと、反転して熱を抱きはじめる。
互いに息をついた、
その、直後。
菊之丞がいきなり、コンバットを引き寄せて彼ごと後ろへと退いた。
「…な、」
なんだ、と言おうとして、同時に聴覚にがこんという音が響く。
コンバットは思わず、緩んだ菊之丞の腕から抜けて音のした方を向いた。
「……あ」
背後。
菊之丞が動かなければ、真上だったかも知れない。床に軽くバウンドして放り出されたそれは紛れもなく、
さんざん見慣れていた『探し物』に他ならなかった。
「おい、それ…」
「…お、れの……ヘルメットか?」
問わずとも解る。あれだけずっと身に付けてきたのだ。
何もないところへと消えていったと思われるそれが、何もない場所から現れた。
「……」
驚きから還り、二人の視線が上へと移る。しかしそこには、やはり天井と照明ぐらいしか見当たらなかった。
「な、なんでだ…?」
「知るか」
コンバットに解らなければ、菊之丞にはもっと解らない。
互いに、互いがそれを解るはずもないと理解しているがゆえに、ただ沈黙を交わし合うばかり。
数秒してから、先に動いたのはコンバットだった。
恐る恐る落下してきたそれに触れる。
その瞬間、九十九パーセントの可能性が確定へと定まった。「…よかっ、た」
思わず、上擦った声が漏れる。
ただ本当にそう感じたのだ。
驚きもあり、情けなさもあり、それでもそれにだけは抗えない。
菊之丞は小さく溜息をついて、しゃがんだまま黙ってしまった男の背を暫し見つめていた。
「…おい、コンバット」
「え…?あ、ああ」
「そろそろ行くぞ。俺は」
コンバットはヘルメットを手にしたまま、慌てて立ち上がった。
菊之丞とて何か用があって通りかかったのだろう。引き止めてしまったのはこちらの方だ。
「悪い」
「まあ、まだ平気だろうが」
片腕に持ったままのファイルは何かの資料だろうか。
そういえば何か作らなくてはならないと言っていた気がする。三世のところへ行かなくてはならないと言っていた気もする。
まだヘルメットを失くす前のことだ。
もうずいぶんと昔のことのように思える。
そんなことすら忘れていた自分が恥ずかしくて、思わず押し黙った。
「…そういや、お前」
ふと聞こえてきた声に、再び顔をあげる。
「なんだ?」
「その格好のまま他の連中と会ったのか?」
「ん?あー……」
会った。
誰に会った、と言おうか。
「最高幹部には全員会ったかな」
「……」
「ていうかお前が最後だった」
「…三世様には?」
「三世様?まさか」
首を振ると、菊之丞は息をついた。
「で、何だって」
「…何だってって、なに言われたって話か?」
「そうだ」
瞬間的に、五人の言葉が脳内を駆け巡る。
何と言ってくれていただろうか。
確か、気遣って言ってくれたのではないかという言葉。それにも確かに救われた。
「まあ、変じゃないそうだ」
「そうか」
菊之丞は頷いて、軽く指を向けてくる。
「お前、やっぱそれ被ってろ」
「……なんだそれ?」
その妙な流れの説明を、彼はしようとしなかった。
そのまま菊之丞が三世のところへと足を向け、
コンバットはすっかり忘れていた時間の経過に驚いた。
どうやら彼を待っている余裕はなさそうだ。
どうにか手だけは振って走り、未だ現実に喜ぶか追いつくかという状態のまま、
ヘルメットを被る。
少しだけ闇のかかった視界は、やはり慣れているだけ心地がいい。
「遅れました」
それでも定められた時刻を過ぎてはいないと思ったが、菊之丞はその言葉とともに彼へと頭を下げた。
別に何かしら返答を期待しているわけではない。
向こうも会話だのを期待しているのでもないだろう。
「…では、ご報告します。三世様」
ファイルケースから取り出した資料を片手に、淡々と続ける。
必要ないと思っていたケースを一応使用したのは正解だった。予想外の事態で、もし剥き出しで持っていたなら皺ができていたかもしれない。
だが資料のことはともかく、その出来事そのものについては悪い気はしていなかった。
顔を晒したがらず、そのくせこちらの服を濡らしたがらずに背く『奴』の様子は痛々しくもあった。元より弱い部分を他者に見せることばかり嫌う男だ。意地を張っているというよりは、心のどこかで理想の自分を線引きしているのだろう。
本能は抑えないくせに格好を付けたがる。どこか思春期の抜け切れていないようなところは、決して嫌っていない。
ほぼ何も考えられないでいた様だが、きっと自分の部屋に帰る頃には顔色を変えているだろう。
次に顔を合わせた時にからかってやるのが楽しみだ。
「ところで、菊之丞」
「はい?」
「どこかで服を濡らしてきたか」
「…え」
菊之丞は黙って、自分のシャツを確認した。
そんなに濡らされてはいないはずだ。跡も残っていない。遠くから見て、おかしいところがないかは幾度か確認してきた。
なにせ今こうして目の前にいるのは、「……!?」
その瞬間、菊之丞は小さく眉をひそめた。
目の前の三世は構わずに呟く。
「つまらんな」
「……何が」
何が。
まさか、
『もう少しお前が現れるのが後だったなら面白いことになっていた』
とでも言うのではあるまいか。
まさか。
「……まさか三世様、ヘルメット…」
あんなタイミングで事が運ぶのは間違いなくおかしい。そもそも、『奴』がそれを失くしたという状況そのものがおかしかった。
「今さっきまで、ずいぶん楽しそうに笑っていたな」
「わ…笑っていた、じゃない!あいつがどれだけ…」
「別に私がやったとは言っていないぞ」
「…どっちにしろ、見てたんでしょう」
それだけは十中八九、間違いない。
三世が僅かに浮かべた表情はどうも、『暇つぶしで仕掛けたマジックが子供の悪戯で邪魔されたのをつまらなそうにしている』ように見えていた。
真実は闇の中。
菊之丞が報告を終えて渋々退室したのは、それから一時間をまわった後のことだった。
その頃。
そんなやり取りのことなつゆ知らず、コンバットはふらふらと帰路についていた。
私室の中に入って扉を閉め、やっと息をつく。
色々なことがあってとにかく疲れた。まだ考えなくてはならないことが多々ある気もするが、どちらかというと忘れたいことの方が多い。
自分の情けない姿。
下手をすれば、ヘルメットを失くしたことそのもの。
我を忘れた瞬間。
「……」
思わずまた、ヘルメットを深める癖が出た。確かにそこに在る慣れきった感触に、もう何度目か解らない安堵の溜息が漏れる。
何はともあれ見付かったのだから、それに越したことはないのだ。
あった方がずっといい。
例えば普段からひとりでいる時に鏡を覗いても、さっぱり面白味を感じない。ヘルメットを被っていた方がずっと『軍人らしく』見える。
如何なる時も平静を忘れず、与えられた任務は速やかに遂行し、地を駆けて戦う。コンバットの好んでする格好には、彼自身の憧れが詰まっていた。
ヘルメットを外し、ゆっくりと鏡を覗く。
やはりヘルメットはあった方がいい。
と、自分では思う。
そんな風に納得して直後、『違和感』に気付いて目を見開いた。
そこに見える瞳が未だに赤い。
数時間前、あの男のシャツをいくらか濡らしてまでぼろぼろ鳴き喘いだために。
慌てて後ろを向くと、逃げるように鏡から遠ざかった。
次に他の連中に出会ったら何と言えばいいだろう。
それ以上に菊之丞と、どんな風に顔を合わせろというのだろうか。
片手が勝手に、脱いで放ったヘルメットを探した。
そんなことをしている己にまた小さく呻く。
コンバットは未だ、彼自身の理想に幾らか遠かった。