僅かに鈍い痛みを感じて、直後己が目を閉じているのを理解した。
さわさわと音を起てている風は外のものではない。室内の空調だ。
軽くはない瞼をゆっくりと開けると、横で何かが動く音がした。
「…起きた?」
「た……い、ちょ…?」
始めに浮かんだ言葉がそれだったものの、間違いであることは明確だ。
声は女性のものだった。
「残念でした。隊長じゃなくて」
半ば安堵の柔らかさを、半ばからかいを伴って更に声は響く。
身を起こしながらはっきりとさせた視界には、覚えのある女性が映っていた。
「…お前、Zブロックの」
「ヒビ」
「…なんでここに」
彼女に『出場権』は与えられていないはずだ。
マルハーゲ帝国五代目帝王決定戦。
闇夜叉について会場まで訪れたカツの目的は、皇帝の座などではなかった。そんなものに大した関心は抱かない。
結果的に己の目的であったのは天の助との一騎打ち、それに他ならなかった。
カツを、Aブロックを振りほどいて帝国から離れていったかつての隊長を、この手で間違いなく葬り去ることが目的だった。
それだけは闇夜叉の手ですらあってはならない。
彼だけはこの手にかけるのだと、そう宣言しても闇夜叉は笑うだけだった。
天の助があのボボボーボ・ボーボボ達と共に暗殺部隊のねんちゃくと戦う様を前に、そればかりを考えていた。決定戦そのものに興味はない。恩のある闇夜叉の力になれればそれもいい。
隊長不在ゆえに己に渡った出場権は銅色のバッジに姿を変えていたが、これも全て終われば放ってしまうつもりでいた。
最終的には彼の亡骸を欲していたことになる。
だがしかし、カツは敗れた。
その後のことはよく覚えていない。
天の助に向かっていった瞬間を闇夜叉には咎められず、ボーボボやその仲間にも邪魔されず、ただあの首輪の子供が天の助に対して逃げろと叫んでいたのは覚えている。
腹が立った。
その直後、天の助の真拳を真っ正面から喰らった。
彼の言葉を聞きながら、意識は遠のいた。
気付けば、ここはどうやら関係者控え室のあった建物の中であるらしい。
「確かに私には出場権、ないけどね」
ヒビはコップにミネラルフォーターを注ぐと、カツに手渡してきた。
彼女はZブロックの隊員だ。ほぼ常にZブロック隊長の側にいたが、副隊長ではない。
「別に見にきてたっていいと思わない?」
「…何をしに」
「…まあ、キバハゲにくっついてよ。あいつが出場権取ったんだけど、出る気はないみたいで見るだけだって」
そう、Zブロックの副隊長はキバハゲという男だった。
戦いよりも旅をするのが好きで、滅多に基地にいることはないと噂されていた。
「で、あんたが倒れてたからここまで二人で運んできたの」
「…二人?」
「キバハゲはまた見にいっちゃった」
そして私はあんたの看病、と空になったコップを受け取りながら続ける。
「………」
「黙ってないで、なんか言ってほしいんだけど。なんなら感謝とかしてみるとか」
「…悪かったな」
「…それ、感謝とは違わない?」
呟いて、コップはテーブルの上に置く。
カツが寝かされていたのはソファ、ヒビが座っていたのは木造りの椅子。簡易だが狭い部屋ではないらしい。
「…何をしにきたの、って質問ならあんたにも当てはまるわよね」
ヒビは更に呟いてみせた。
「………」
やや伏せていた顔をあげ、少しばかり顰めた表情で返す。
「そんな顔しなくてもいいでしょ。あんまり変わってないけど」
「…悪かったな」
「悪くはないわよ。…あんた、ところ天の助と戦ったの?」
間を置いての問いに、カツは今度こそ言葉を返さなかった。
「…やっぱりね。戦ったんだ」
「……」
「満足した?」
ヒビとの面識も、互いを知らないという程無いわけではない。
Zブロック隊長『だった』田楽マンのことも知っている。あの場にもいたのかも知れないが、意識することはなかった。
「…負け、た」
絞り出す様に、呟いた。
不思議と楽にもなる。
そうだ。自分は負けた。彼に負けた。
元々、彼は決して弱くはなかった。
少なくとも帝国に指名手配される程には。
「…でも、生きてるのね」
「…死に損ないだ」
「生きてるならそれで良かったじゃない」
天井の方に視線を向け、ヒビは大きく瞬きをしてみせる。
「また会えるし、また話せる」
「話すことなんてなかった」
「でも、出来るかもしれないでしょ」突き放し合ったわけじゃないんだから。
続けられた言葉が、交差する様に室内を響いた。
「…バカな」
カツは微かに笑って返す。
「隊長は帝国を裏切った」
「クビになったんでしょ」
「その後ボーボボ達についた」
「買ってもらったんでしょ。よく解らないけど」
ヒビの言葉は確かに、考えられる事実そのままだった。
買い物などというのはつまりは早い者勝ちだ。
天の助が負け、毛狩り隊から除名され、スーパーに戻り、そしてボーボボが天の助を仲間として認めスーパーに辿り着いたが故にこうなった。
ボーボボ達の横で、天の助はやはりくるくるとその表情を変えていた。
カツの知っている姿。
カツの知らなかった、姿。
彼はその居場所を愛おしんでそこにいる。
気付けば異なる世界へと、笑いながら移っていった。伸ばされたのであろう手を掴んで。
「別に捨てたつもりなんてないんじゃない」
「…言い切るな」
「あんた、あの隊長のことになると極端なのよ」
違う、と問われてカツは答えなかった。
説明づけるものなどない。
ただ解るのは、自分が天の助に負けたという事実だけだった。
「また会って、殴り合いだって叫び合いだってできる明日があるんでしょ?考える時間も…そう思ってみると羨ましかったりするけど」
「…時間?」
そんなもの、足りはしなかった。
時はいつまでも巡る。
問いかける内に、その背はどこまでも遠くへと離れた。
「だいいち、何が羨ましいんだ」
幾らか落ち着きかけた声で、今度はカツが問うた。
羨ましいも何もない。田楽マンは確かに敗北を理由に除名されたが、先にZブロックの隊員達から突き放されたという話だ。
それこそ、『突き放し合った』のだろうに。
「まあね。だから私達、あのひととはもう会えないと思ってるけど」
「…会いたいのか?」
「…そりゃそうよ」
「……なら、どうして」なら、どうしてそんなことをしたのか。
終いまで聞かずともその問いの意味を察したらしく、ヒビは寂しそうに笑って応えた。椅子に座り直し、横顔を見せる。
「あのひと…田楽マン様ね」
涼しげな彼女の声に異なる色が降りた。
優しげでどこか悲しい。
彼女は、哀しいのだろうか。
何が。
「泣いてたのよ」
「友達が欲しいって、泣いてたの」
「それがあの人の一番欲しいものだったのね」
可愛らしい声をあげてヒビに甘えていた田楽マンが、しかしそんな『願い』を語ったことは殆ど無い。
確かに寂しがりではあった。
しかしその思いの内を、ブロックの誰かにぶつけたことなどなかった。
ヒビにも、シルエットにも、キバハゲにも、誰にも。「毛狩り隊がくれるのは友達じゃない」
地位、名声、現実。
象徴のようにもして愛された田楽マンには、殴り合う様な相手がいなかった。
感性の合っていたのはキバハゲだっただろう。
しかし彼もまた田楽マンを敬って、笑うばかりで接していた。
「まだあんなに小さいんだものね。…知ってた?まだ半年しか経ってないのよ、生まれてから」
「あのひとの帰る揺りかごはここじゃ駄目だった…」
ボーボボ一行と戦う田楽マンは、ヒビの知っている田楽マンとは異なる顔をも見せた。
この場所では見せることのできなかった彼自身。
その解放を望むのならば、友達になってやると言い切った者がいたならば、優しく声をかける少女がいたならば、もう彼に首輪は必要ない。
彼は飛び立つことが出来る存在だ。
本来ならばキバハゲの様にどこまでも、どこまでも駆け抜けるだけの足を持っている。
だからもう、彼を縛り付けていてはならないのだと思った。
「だから帰れって言ったの」
「…帰る?」
「本当の帰る場所になってくれるなら、あそこの方がずっといい」
あのひとは、本当はどこへだって行けるのだから。
「…それで幸せになってくれるなら、会えないのなんて我慢するわよ」
首を振ったヒビの瞳が、微かに潤んでいた様にカツには見えた。
「…あんたまだ決めかねてるでしょ」
「何を」
「隊長とどう決着をつけるか。だから、火が点いたみたいにこの部屋から出て行ったりもしない」
「………」
「ま、どっちにしろ納得いくまでやればいいと思うけど」
ヒビはそこで言葉を切って、カツの方を向いた。
視線を合わせると共に再び口を開く。
「天の助がまだ隊長だった頃を客観的に見てた人間として思うんだけどね。…あの人、あんたが望むなら死ぬまで付き合い続けるわよ」
「…今はもう、部下でもなんでもない男のためにか?」
「でも、あんたが殺そうとしたのを受け止めたんでしょ」
「……」
彼を呼び捨てなかった。
忘れさせないために。そして、忘れないために。
そして彼は、自身を隊長だったと認めた。
カツのことを副隊長だったと認めた。別離して、それでも背負い続けているのが己のみではなかったとしたら。
「だから」
「………なんだ?」
「…だから、あれよ。あんたとりあえず休んどきなさい」
「いや、もう今まで寝て」
「それじゃ足りないわよ、絶対!叩いても叩いても起きないから、ほんとに死んでるのかと…」
「……」
「…思ったんだからね」
咳払いをしながら言い切って、ヒビは顔を背けた。
「その後ちゃんと決めたことがあるなら、そうすればいいんじゃないの」
「やけに気を遣うな」
「…ほぼ同じ立場のよしみよ」
「……ありがとう」
「…なんだ。ちゃんと言えるんじゃない」感謝の言葉。
カツは久々に、心の底から力を抜いた。
自分に時が巡るならば、彼にも同じ時が巡る。
彼女にも、彼女の隊長にも同じ時は巡っている。
選択は今からでも出来る。世界のどこかに彼は存在している。
彼は、強かった。
自分の知らないところで消えていきはしない。最後の約束は果たされなかった。
それでも互いに生きて再び出会ったことを、彼はどんな風に思うのだろうか。
忘れるべきことはない。
思うべきことは山の様にある。
そして幸いにも、休息の余地は用意されていた。
闇夜叉は敗北したのだろうか。彼もまた強かった。しかし対するボーボボ達には人数がいたのだから、あの彼もそこにいたのだから、結果がどちらにしろ間違いではないだろう。
最後の約束。
誕生日、ささやかな祝福。
覚悟と別離。
その先。
「…誕生日、か」
「…ん?」
ソファに身を任せたまま、カツは呟いた。
「お前、隊長の誕生日なんて祝ったことあったか…?」
「隊長の…誕生日ね」
キバハゲに待っているよう言われている、というヒビは、手持ち無沙汰な様子を崩してカツの方を向く。
「…隊長、生まれてから半年だったって言ったでしょ」
「……そう、か」
「だから約束したわよ、お祝いしましょうねって。一度目の誕生日だもの…プレゼントくらいこっそり渡せないかとは思うけど、ボーボボの仲間だって預かってくれないでしょうね」
「…隊長なら」
彼ならば、それでもヒビの気持ちを理解してくれるのではないか。
「え?」
「…!」
思わず口をついて出た言葉を慌てて自ら留める。
ヒビは暫し沈黙し、そして吹き出した。
「やっぱり隊長、なのね」
「……」
顔を背けて、カツは溜息をついた。
巡る時の中で生きていれば誰にも訪れはする日を、誰もが違う風にして考えることだろう。
カツはぼんやりと、忘れかけていた次に訪れる『その時』を思った。
その日、自分はいったい何をしているだろうか。
その日、彼はいったい何をしているだろうか。
いったいどんな日として己の前に現れるというのか。
かつて忘れ、かつて待ち続けたその日が。
それを考えるためにはもう暫し頭を休ませねばならぬのだと、
彼女は教えてくれたようだった。
カツとは会場の出口で別れ、ヒビはキバハゲとともに基地への帰路についた。
キバハゲはどうやら、ボーボボ一行の動きを知ってはいるらしい。だが彼はカツに何も語らなかった。
「隊長は大丈夫なんでしょうね?」
「さあなぁ」
「さあ、じゃないわよ」
「隊長だってナリは小さいが実力者だ。簡単にくたばったりはしないさ」
「…ハジケリストってどうしてこんなに自信ありげなのかしら」
それでもキバハゲには決定戦出場の意思はなかったらしい。
興味はない、そして俺では勝てない、と何も否定することなく肩を竦めていた。
「ボーボボ連中を応援、っていうのは気に入らないけど…隊長……」
「そんなに心配しなくても、ボーボボ…あの男にはガネメがある」
「ガネメってなに?」
「それさえ解放すれば決して敗北はないだろう。そういうものだ」
「さっぱりわかんないわよ!」
Zブロックの副隊長として認められながら追求を好む彼は、思考までヒビの知らない場所に及んでいる。
以前からそうだ。ヒビやシルエットには理解しきれない彼の言い分を、田楽マンだけはうんうんと頷いて聞いていた。「それより」
「なんだ?」
「…あいつの話し相手なら、あんたの方が向いてたんじゃないの」
「なんで?」
「あんたが副隊長だから」
側にいたのは自分達だが、その立場にあったのはキバハゲだ。こればかりは実力で定められている。
「だとしても、俺よりお前の方が向いてたさ」
「なんでよ?」
「隊長の側にいたのはお前とシルエットだったからな」
「……そ、か」
キバハゲの思考には、やはり時に先回りをされる。「…隊長ね」
「?」
「あんたが出かけると、いつも帰ってくるの待ってたのよ。ケルベロスの横にちょこんって座ってさ」
「…へぇ」
「かわいかったなー…」
「…そーか」まんざらでもなさそうなキバハゲを横に、ヒビはゆっくりと田楽マンの姿を思い返した。
ヒビが誕生日のことを尋ねた時、田楽マンは自分の誕生日は四年に一度しか来ないのだと答えた。
二月二十九日。
そんなもの、前日なりなんなりに祝ってしまえばいいのだ。そう約束すると、それは嬉しそうにはしゃいでいた。
隊員達の誕生日を片端から聞いてまわるぐらいに。
(…ともだち、か)
別のところで出会っていたならば、違った思いを抱いたろうか。
「ところでお前こそ、カツのこと置いてきてよかったのか?」
「へ?」
突然の問いに、ヒビの回想は中断された。
「大丈夫って…あんただって『もう平気そうだな』なんて言ってたじゃない」
「そりゃ言ったけどさー」
「けどさーって何よ、けどさーって」
すたすたと前を歩くキバハゲの背を睨む。
が、それらしい反応は返らない。
「…変に心配しなくたって大丈夫よ」
「そうか?」
「この後のことなんて解んないけど」自分が追わず引き止めずの道を選んだ様に、彼は進む道を選んだ。
そして今あの場所にいて、これからどうしていくのだろうか。それでも、
彼は『それ』が出来る人間であるのだろうと思う。
「ちゃんと、自分の足で歩いてたから」
彼と彼のおもうものの生きる、同じ時が巡る世界の上を。