風に乗った潮の香りの中を、どこまでもどこまでも駆けていた。
雲ひとつ浮かぬ空は美しく遠い。
もっとゆっくりと見ていられたら幸せだったのに。





支配者




「…!……!!」
「……!!!」
駆けるふたりはほぼ無言だった。
無言だったが、声にならぬ声は交わし合い続けている。
そもそも駆け出した始めは叫び合いだったのだ。

いやぁやめて、おいかけないで。そんな鬼みたいな顔して刃物をかかげないで。
うるせぇ、余計なことを言うのが悪いんだろうが。追いかけてほしくなきゃテメーが立ち止まれ。

スタート地点は何処だったろうか。そうまで遠くではないが、すぐ側でもなくなってしまった。
居合わせることになった周りの連中も呆れるなり慌てるなりをしていたが、彼らが何かしら関わろうとする前に、ふたりのコースはどこまでも広がった。
建物の少ない土地で空がとても広く見える。包み込まれているようだ。
海が近く風は強く、しかし心地よい。
どこまで走ってもその世界は続いた。いや、もしかしたらそこまで走ってもいないのかもしれないが。

とにかく天の助は頑張りすぎて、別方面の新世界へと飛びかけていた。
OVERもめげぬ逃亡者をどうにかしないわけにはいかないと、鋏を持ち慣れた手にも薄ら汗を滲ませていた。

その後も行ったり来たりを交えつつ彼らの戦いは続いたが、言葉無き内にも埒が明かないことを理解する。
結局は通りかかった岩場を休憩地点と定めた。





「あ〜死ぬー」
「死ね」
「死にたくなくなったー」
「それでも死ね」
「やだー」
穏やかではないやり取りをしながら、天の助はぺたんと岩に背を貼り付けていた。息も荒い。
OVERの方は不機嫌そうに腰を降ろしていたが、呼吸は多少乱れているだけだった。
それなりには彼ららしい光景。
強いて言えば、叫び合うことも追いかけ合うこともしていないのが普段の彼らとは異なっている。

「…なみのおと」

天の助のぼんやりとした呟きに、OVERは眉を顰めた。
追いかけるのを止めてやったらこれだ。この軟体生物といいその周りの連中といい、わけの解らないことを言い出すのには人一倍長けている。
「そんなもんずっと前から聞こえてるだろうが」
「聞こえませんでした」
「ギャーギャー喚きやがるからだ」
「だって怖い人が追いかけてくるんだもん…」
「馬鹿め。大人しくしてりゃあ冥土の土産に聞くことが出来たろうよ」
「冥土の土産!?そんな穏やかさはいらねーよ!」
悟りを開いちまうじゃねーか、とそんなことをぼやきながら、天の助はのろのろと起き上がった。

問おうかと思った。
「まだやるか」と。
それで逃げだすのならまた斬り刻んでやればよかったのだが、何も言わぬ内に天の助は目を閉じる。
そして意味もなく深呼吸を始めた。
問いかけてやる気が失せた。

「んー」
気持ち良さそうにに伸びをする軟体生物を、OVERの瞳は訝しげに捉える。
「なんなんだテメーは」
「潮の香りってカンジ」
「あー、うるせェ」
波の音だの潮の香りだのという呟きは、マルハーゲ四天王最凶の男にとっては基本的に理解の外だ。
わざわざ唱うことでもない。彼にとって愛すべき血の香りすら、そんな風にしては感じまい。
「あ、見ろよOVER。あっちから海見えるぜ、海」
呆れている内に、軟体生物天の助はてけてけと走って行ってしまった。
隙を見た気かと思えばそうではない。
OVERの視界から抜け切らない、広がる砂浜の端の辺りまで走って、何やらしゃがんで前だけを見ている。

(…………)

暫し座ったままそれに視線をやっていたが、やがてOVERも舌打ちひとつと共に立ち上がった。


「バカか」
骨のない背に声を浴びせると、その視線がこちらを向く。
「な、なんで?」
「何も考えずに背ェ見せやがって」
「…だってOVER、今は斬らないじゃん」
多少緊張の色の混じった声に、OVERは口角を上げた。
「今から再開してやってもいいんだぜ」
ええぇ、と情けない声とともに瞳が怯え瞬いた。
そうして引き攣らせるだけOVERは笑う。

天の助はひねくれているくせに、無防備に剥き出しにして受け止める。
鋏を構えてやれば泣いて、突き立ててやれば叫ぶ。
その後には恐怖を忘れてはまた無意味にこちらに絡み、痛みを忘れては引き裂かれて嘆くのだ。
それは刻めていないことの証であり、
しかし繰り返される限りは何も変わらない。己が領域の内に在り続ける。
OVERには、何ひとつ変えてやる気はなかった。

「そんな、いつも怖い顔してなくたっていいじゃねーかぁ」
「誰がそうさせるんだかなァ?」
「俺に決まってんだろ」
「…ほう?」
解ってんじゃねぇかと返す前に、天の助はいやんと品を作って飛び退いた。
「OVERも海でも見ようよう」
「生憎俺はロマンチストじゃねぇ」
妙に穏やかな時が流れているのは、天の助がすぐに退いてしまうからだろうか。
影響されていると思うと気に入らない。
「いいぜー海は」
海海と五月蝿い天の助に、OVERは今一度眉を顰めた。
「何が」
「俺の生まれた場所だし?」
「……」
腕をす、と広げて、天の助はその身を伸ばした。
吹く風をどこか懐かしげに吸い込んでいる。
「…それは蒟蒻じゃねぇのか」
「蒟蒻は芋じゃんか」
山だよ山、と続けてから首を傾げる。
「ああでも」
呟き、怯えは含まぬ瞳でOVERを見て笑った。
「全部最初は海だったって言うっけ?」

何もかもが海から生まれたという言葉を、その剥き出しの感情にどう受け入れているのだろうか。
その身体の源を海から得た。
海からすくわれ、望まれて人の手に産み出され、しかし生み出されたが故に望まれなかったと嘆く。

「OVERも俺も、最初は同じとこから生まれたのかもなぁ」
「…知るか」
「お前は信じてないか。そんなの」
天の助はそんなことを言うくせに、夢を見る様な目をして空を見た。
誰も在らぬ海の底に沈んで眠った気にでもなっているのだろうか。
「さあな。…そうだとしても」
呟き返す。
海は目前に広がっている。
その先は見えない。
「それは俺じゃねぇ」
ざあざあと波音を起てながら、今は何も抱いていない。

それでも今天の助に問うたなら、抱いているのだと応えるだろう。
彼は笑った。
己の源は海だと、今にも溶けるようにして笑った。

その感情が、彼を生んだという海原にばかり真っ直ぐに向いている。

天の助の足はまた、塩水に浸って踊りたいと、OVERの横から離れようとした。
しかし留められる。
OVERの片腕が些か乱暴に天の助の肩を掴んで、それを許さなかった。

「うわっ」
「…お前でも、ない」
OVERの言葉はそこで途切れた。
替わりに続いたのは伸ばした腕で、掴んだ天の助の身を引き寄せる。
まるで刃を進める様に。
「な、に…」
「見るな」
「え、あぁ?」
それから肩を手放したかと思えば、そのまま腕を滑らせて天の助の視界を覆ってしまった。
顔の、瞳の部分が締め付けられる。天の助はじたばたと手足を動かした。
だがOVERのもう片方の腕が、それすらも封じてしまった。
「な、なんだよっ」
「………」
しめつけられる。
強く、強く、その熱を内にまで感じるほどに。
天の助は口を塞がれぬまま言葉を失った。

「何も見るんじゃねぇ」

気に入らなかった。
天の助が海を見ているのも気に入らなかったし、彼が海に向けて今にも走り出そうとするのも気に入らなかった。
透けた身体は水より脆い。
その姿が呑まれて見えなくなる幻が、何故か脳を駆け抜けた。

「…なんで?」
「俺が気に入らない」
「お前が気に入らないと、俺は見ちゃだめなのか?」
「そうだ」
「じゃ、あっち向くから」
「それも駄目だ」
「波音だけじゃ寂しいのにー…」
「…聞くなッ」
「え、それもダメなの?」
「駄目だ!」

OVERの声は天の助の問う語尾に重なって、その海への願望を遮断した。
天の助はその否定に暫しぼうっとしていた。が、やがて身体の力をだらんと抜く。

「…OVER様はワガママだ」
「うるせぇ、黙れ。バラバラにするぞ」
「なんも悪いことしてないのにぃ」
「俺が決める」
「何ソレ」
「…黙って聞いてろ」


「これ以上海がどうのと言ってみろ」

「一生そんなモン見えねぇ場所に磔にするぞ」


「…OVERぁ」
沈黙の後、捕えられた獲物は情けない声をあげる。
「あぁ?」
「腕、くるしい」
「…で?」
「動けないし痛い」
それは望む声でも縋る声でもなく、呼吸を繰り返す様にして響く僅かに震えた言葉だった。
「…何言っても聞いてくれないでやんの」
「聞いてやる義理はないからな」
そんな風に言いながら、離さないくせに。
「逃げないから、ゆるめて…」

獲物は今ばかりは、諦めなくてはどうしようもないことを理解し始めていた。
頼めど両腕は緩んでくれない。
身体の力を抜けば抜くほど、それは強まっていった。

きっと辛うじて聞こえる波音すら忘れるまで、何も許されはしないのだ。

天の助は当分帰れないであろう、仲間達の姿を少し思って溜息をついた。
それも消してからOVERの身に己を預ける。
どうなるかはまったく知れないが、どうにでもなればいい。
OVERは決して己を逃がさない。
その鋏に道を塞がれて、何時も最後には彼が支配者になる。


寄りかかってきた重みを感じ、OVERは微かに笑んだ。
目前には海が広がっている。OVERにとって、さしたる興味の対象ではない。
例えば真の姿がそこに何かを思うとしても、殊に今の彼に対してはそれは何でもなかった。
柔らかい身を締め付けたままに一度だけそちらへと視線をやる。


くれてはやらねぇぞ。
人とは異なるこの身体も、どうして流れているか知れぬ血も、響き奏でる涙も叫びも、全て壊し吸い尽くすのは俺だ。



解かれぬままOVERの頬が触れるのを感じて、天の助は彼の吐息を聴いた。
ほんの僅か。
ほんの僅か互いが響かせる、もしかすれば同じ場所から生まれて、ここに在る証。
彼にとっては読み直すべきことでもないのだろう。
腕は強いが幾らか優しくなった。


だからもう今は、それでもいい。
捕われているのならば。





風に乗った潮の香りの中で、
雲ひとつ浮かぬ空は美しく遠い。

さあさあと響く波の音さえ遮って、ただ不思議なほどに影二つだけが熱を交わしている。












海で明るいことをしときゃいいのに、何だか変な方向へ向いていきました。
しかもオチがない。これ天の助、ちゃんとボーボボ一行のもとに帰してもらえたんでしょうか…

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