ボーボボはサングラス越しの世界に、ふと一冊の小さなノートを見付けた。
持ち主は馬鹿正直にも表紙に大きく名前を記していた。
下手とは言わないが全て平仮名。それはともかく、その持ち主のノートといえば面白い前科がある。
躊躇も遠慮もなく表紙をめくるとそこには、『ぬ』の字が列をつくっていた。
「なんじゃこりゃ−!」
「勝手に見るなァー!」
「ウルセー!」
ボーボボとノートの持ち主、こと天の助。双方の腕がクロスカウンターした。
が、天の助はリーチが足りずに強烈な一撃を受けることになった。
「ぐばッア!き、きい、た…ぜ………あばよ、兄弟…」
「あああッ、死ぬな兄者ァー!」
男前に笑って目を閉じる天の助にボーボボが縋りつく。
切なげな曲がフェードインした、が、天の助の腕がボーボボの鳩尾を狙って伸びたためにそのままフェードアウトしていった。
「隙あり!」
「……」
ぷるん。
ボーボボには撫でられるほどのダメージもない。
「……」
「…ウ・ソ・よ」
「………今だ必殺!ところてんマグナムー!」
「ぐぼァ!!」
何を必殺するのか解らないまま、ところてんマグナムは遥か彼方へと消えて行った。
「フー。お前のおかげで酷い目に遭ったぜ」
「誰のせいだと?」
ボーボボは天の助のものであろうノートを片手に、無表情に言い返した。
「…あ!それ返せよぅ!」
「やだよーだ」
「あーん!あーん!返してよー!」
「べー」
二十七歳の男と三十四年生きた男のものとは思えない力の抜けた会話。
二メートルを超すボーボボがその長い腕を挙げると天の助にはとても届かない。ぴょんぴょん飛んで嘆いていたが、すぐに諦めて寝転がってしまった。
「いーもん」
不貞寝する天の助。を、気にもせずボーボボは再びノートを開く。
「これは何なんだ?」
「それはぬのノートさ!」
「……」
「ふがふが、ふいまへん。ほんほーのほといひまふはら」
天の助は顔を横に伸ばされながら解放を訴えた。
「それはなぁ」
「ああ」
「ところてんマグナムされたりすり減ったりした回数、数えてんだよ」
「……」
ボーボボは訝しげに、再びノートを見る。
「なんでそんな意味のないことを?」
「数が多かった次の日は大人しくしとくの」
「ほう」
だがそこに記されているのはただの『ぬ』の羅列で、どれがどの日かなど解らない。
「日付がないな」
「うん。それで解んなくなったから、やめた」
ボーボボは沈黙した。
そしてノートをぐにゃりと折り曲げる。
「今日はカブトムシを折ります」
「あー!やめてェ、俺のぬのノートー!」
天の助は慌てたが、ノートは既にくたりと曲がってしまっていた。
「ひでぇー…」
「しかしまぁ、お前がそんな細かいことをしてたとはな」
「んー。お前らについてくようになってさ、減ったり増えたり忙しかったから」
減ったり増えたりというのは人間の感覚で解るものではないが、例えば血液のようなものだろうか、とボーボボは考える。
だが天の助は『減る』時、叫びはしても痛みを訴えることまではそうはない。
そうして気がつけば元に戻っているのだった。
「それでも意味がないからやめたわけだな」
「まぁね。今だって気ぃ付けちゃいるけど」
「気を付ける意味なんてあるのか?」
「あー」
天の助は己の頬を、掻くようにして撫でた。
「元に戻れなくなるのは、さすがに困るからさぁー」
「…お前が戻れなくなるとは初耳だな」
「俺だって減れば減るんだぞ。穴開いたら塞ぐし、何で塞ぐかって、他のとこから持ってくんだから」
己の体の話をしているとは思えないが、それをまるで当たり前のように語る。
「身長も減ったり増えたりするしー」
「フーン。気付かなかった」
「ヤダひどーい!」
「お前が一言も文句言わないからだ」
「…う−ん、文句はねぇかな」
天の助は一瞬難しそうな表情をしたが、すぐさま頷いた。
「俺ヘッポコ丸やソフトンみたいに真面目に戦うの向いてねぇし、首領パッチみたいなことやれるわけでもねぇし?」
勝手に納得したらしく、フ、とニヒルに笑ってみせる。
「まあ、お前の役に立つ方法なんてそんなモンかなって」
「……」
ボーボボは暫し沈黙し、ぽつりと呟いた。
「…お前、俺の役に立ちたいのか?」
考えたこともない。
天の助について来るかと問うたのはボーボボだったが、彼の心の内をそうまで考えたことはなかった。
「…お前には解んないかもしんないけど」
「ああ」
「ていうか、わかんなくていいっつーか」
「言え」
「…俺にとったらお前、命の恩人みたいなもんだから」その声は間違えなく彼のものだったが、子供のように力なく透き徹って聞こえた。
「…恩人?」
「だから、解らなくていいんだってば。お前人間なんだからさ」
天の助を仲間に誘ったことに深い理屈はなかった。ポマードリングに乗り込む際に、五人目として浮かんできたのが彼だった。
ハジケブロックで再会した時には声をかけても首を振られない確信があった。
敵として出会った頃からぼんやりと懐かしさの様なものを感じていた。
やっていける相手だ、と。
「だからそのノートもほんとは意味ないんだよな」
未だボーボボの手にある折り曲げられたノートを示して、天の助が呟く。
「なくなっちまうのが嫌だなんて、考えない方が上手いことやれるもんなぁ」
脆いくせに頑丈な奴だと思った。
首領パッチのように耐えはしないが、何時でも平気そうにしているところを見れるであろうと。それを疑ったこともない。
失われることはないものだと思っていた。
考えたことも、なかった。
「…天の助」
「んぁ?」
名を呼べば返ってくるのは気の抜けた返事。
彼にとっては大したことでもない、当然だということか。
くだらないことにはしつこく抗うくせに。
大切なことほど、解っていない。
「このノートは没収だ」
「えー!なんで?」
「どうせもう使わないんだろう」
「そーだけど、」
「お前は」天の助の言葉を遮ったその声は、必要以上の力を含んでいた。
「お前はずっと、お前のまま騒いでいればいい」
俺に恩を感じているのなら、
自分で自分を捨て駒のように言うな。
その言葉までは、喉から出て来なかった。
「…ん」
小さく返ってきた声は、普段は他の声とともに響き合ってボーボボの耳元を踊っている。
それが今はひどく危うかった。
脆いようで頑丈で、危ういもの。手を離せば元に戻ることも止めてしまうのではないか。
「いいな」
「…あー」
「いいな」
「…うん」強く念を押せば、彼らしく頼りない答が返ってきた。
「いいな」
お前は今のままでいろ。
俺も今のままでやる。
そしてお前がどうしても危ういようならば、
その時は前に立ってやってもいいのだから。俺に何も言わず消えていくな。
「いいな」
「…ああ」
伝えたいものの代わりに繰り返す言葉に、最後にぽつりと返された声。
それは彼の歳相応の気の入った声で、
それを聞いてボーボボは、己の胸を締め付けていた何かが辛うじて緩まっていくのを感じた。