考えずにはいられないことがある。
それは常に心のどこかに潜んで、例え別の何かを強く強く思えど消え去ることはない。
常にどこかで目を覚まさんとしている『何か』。
決して忘れるべきものではない。
忘れられずにいられるだけの『何か』。
例えそれが痛みや苦しみを伴うとしても、忘れてはならない理由を持つ、
『何か』。
ボボボーボ・ボーボボは、見えるものから目を逸らさぬ強い男だ。
己の弱さにすら向かい合えるであろう、強い男だ。
信頼することのできる相手。大切なものを任せられる男だ。
ソフトンは、ビュティと隣り合って腰を降ろし何ごとか話している彼の背を見つめた。そこから視線を滑らせビュティのまだ幼い背を見るが、すぐに逸らす。
己の背に負う偽りを思うと、そうしたままではいられなかった。
必要な時。それだけでいい。足らぬ時のみのこの腕で、それでいい。
だからこそ彼を、そして彼女をこの心の内から離してはならない。
この足の動くべきその瞬間を逃さぬように、例えそのためにこの背に強く負うものがあろうとも。
捨てられぬ『何か』。
耳を撫でる何かの響きが薄らと強くなっていく。
気付けば、あとはどんどん騒がしくなっていった。どうやら首領パッチが破天荒相手に何か騒いでいるらしい。
目をやれば、首領パッチが派手な衣装をまとって歌うのを破天荒が褒めたたえ感涙しているらしかった。
破天荒の首領パッチを見る瞳は、別のものを見るそれとは全く異なっている。親を見る雛鳥。否、より力強い。勇者に憧れる少年。否、よりその側に近付こうとしている。
ソフトンには信じる神があるが、そういったものを見る目とも違っているように思えた。
破天荒にとっては首領パッチが『心を離すことのできない何か』なのだろうか。その感情は他人に読み切れるものでもないだろうが、彼の姿を初めて見た頃のことを思い出せばそう感じずにはいられない。二人からそう離れてはいない場所で、ヘッポコ丸が切り株に腰掛け何かの本を読んでいた。その視線は瞬きすら惜しいというかの様に本の中身に釘づけられている。
真っ直ぐな少年だ。
ソフトンにとっては眩しいほどに純粋な、たくさんのものを守りたいと望む目。同時に、今の自分にはそれが叶わないとも感じてもいる、目。
だがただ伏せるのではない、上を目指している。彼がああしてよく本を読むのは強くなるためでもあるのだという。
彼は心の奥底の部分が十二分に強い。
その足で歩く強さも、必要な時に何かに縋ることのできる強さも持ち合わせている。
時折真っ直ぐすぎるのではないかとも感じる彼の心は今はその視線にあらわれて、やはり一冊の本に釘づけられていた。
彼の側では田楽マンが寝転んでいる。
首領パッチあたりとはしゃいで疲れたか、本を読んでいるヘッポコ丸にちょっかいをかけて相手にされなかったのか、うつらうつらと眠りに入ってしまっているようだった。そうしている内にぼんやりと思い出されたのは魚雷ガールのことだった。
ヘッポコ丸とはその勢いこそ違うが、彼女もまた真っ直ぐにその道を歩いている。
今は一行から離れているが、ソフトンの中には何故か彼女とまた会う日が来るだろうという確信があった。
彼女を信じるゆえか、自惚れか。
ただ言えるのは、仲間達を生徒と呼んで引っ張っていく彼女もまた強いのだということだ。
そうしてふと、気付いた。
普段に比べて幾らか静かだと思えば、強いのか弱いのか解らない、何故かソフトンに対してもよく絡んでくる男がどこかへ姿を消していた。
暫ししてからソフトンはその場を離れた。
特に理由はないが、散歩がてら彼を探してみるのも悪くないだろうと思った。
仲間達に声はかけなかったが、目の合ったビュティと軽く手を振り合う。一行から抜けるのでもなければ固い挨拶は必要ない。
ただ、軍艦と戦った時は戦闘後の後始末やら何やらの混乱もあっていつの間にか離ればなれになっていた。だが結局その時にいた連中は皆、現在も共に行動している。
思えば妙な一行だ。たまたま出会った者、以前から関わりのあった者、それどころか敵だった者。騒がしい旅ではあるものの喧しい号令など必要としないのは、ボーボボという男が信頼されるが故だろうか。ソフトンも敵としてボーボボにその技を向けたことがあった。
彼も、天の助もそうだったと聞く。
「…何を」
しているのか、とその背中に問いかけようとして言葉を終える前に、彼はこちらを向いた。
「あらやだウンコさん!覗き見!?」
「…ソフトクリームだ」
首領パッチと並んでその訂正を聞かない輩だと解ってはいるが、言っておく。
天の助はボーボボ達から見えるか見えないか程度に離れた場所で、本らしきものをぱらぱらとめくっていた。とはいえ読んではいないのか、ページがぱらぱらとめくれていくのをただただ見守っている。
ソフトンは背後から近付くかたちになったが、ぼんやりとしていたのか鈍いだけか声をかけて初めてこちらを向いてきた。
「なんか用か?ウンコ」
「…だから」
違うと言うのに、と訂正してもやはり聞かない男だと解っているので、もう言うのをやめた。
代わりに問い返す。
「…何故わざわざこんな所で本を読んでるんだ」
それを問おうとここに来たのではないが、散歩がてらと何となく彼の姿を探していたのは間違いない。
天の助は暫し首を傾げていたが、己の手の中にある開いたままの本に気付いた。
「!」
直後、力いっぱいそれを閉じる。
「…み、見た?」
「見てない」
「やっぱり見たのね!卑怯者!」
「見てないと言ってるだろうが」
覗き見の趣味はない。
泣き真似をしている天の助はそれ以上否定もしないソフトンの態度に飽きたのか、ぱっと顔をあげた。
「じゃ、いいや」
こんな場所まで来て読んでいるのだから、本当に見られたくはないのだろうが。詳しく問うこともないだろうと、ソフトンは黙る。
だが天の助はあっさり口を滑らせた。
「これ俺の秘密、ってーか人生の汚点だから見られるとまずいんだ」
「…言っていいのか?それがお前の秘密だと」
「あ」
『人』生なのかはこの際いいとして。天の助は、その『人生の汚点』に目をやるとふっと笑った。
「…まあ、ウンコならいいや。口かたそうだし」
「だから違うと」
言っているだろうが。
だがそう訴えたところで、彼はどうせ聞かないのだろう。
ソフトンが立ち去るタイミングを掴めずにいると天の助は、立ったまんまで疲れねぇの、と聞いてきた。
その言葉に思わず腰を下ろしたが、話題といえるようなものもない。だが天の助は沈黙を苦にしないのか、暫くはぼうっと座ったままでいた。
が、突然。
「…ソフトンってさぁ」
今度こそきちんと名を呼んできた。何ごとかと、視線のみそちらに移す。
「毛狩り隊でバイトやってたんだっけ?」
「…ああ。Cブロックでな」
「あー。ゲハんとこね」
「知り合いか?」
Cブロックの隊長、かつてソフトンの雇い主だった男の名が『疾風のゲハ』だ。
「そりゃーまぁな」
「そうか」
「あいつ、どーしてんだろなぁ」
その呟きに、ソフトンはやや顔を顰めた。
ゲハはどうなったか。
ソフトンは、ボーボボ達と彼の戦いの一部始終を見ていた。
覗き見の趣味があるわけではないが、彼らの実力を確かめるためにだ。
「…ゲハは、壁男に」
飲まれた。その先は、解っていない。
「…壁男?」
「軍艦の部下だ」
「…あー、そーか。やられたんだ」
「……」
天の助は小さく溜息を吐いたようだった。
「あいつ、ちょっと自信家だったしなぁ。んー…自信家だったし?」
それは天の助にも通じることなのではないかと感じはしたが、彼の思いに水を差すこともない。
「軽蔑するか?」
「…なんで?なにを?」
「俺だ。何もしなかったからな」
ボーボボに負けてから、挨拶なしに隊と手を切ったのは己だった。
「なんで?別に悪いこっちゃないだろ」
「そうか」
「毛狩り隊ってそーゆーとこじゃん、だって。負けたらおしまい」
再び溜息混じりに、ぽつりと呟いてくる。
「それにソフトン、バイトだったんだんじゃん」
「…ああ」
アルバイトというよりは雇われだった。毛狩り隊はブロック隊長の殆どをバイトでまかなっているだけあって、どんな素性であろうと募集に応じて認められれば潜り込むことができる。望めばのし上がることも可能だったかも知れない。
「負けたがな。ボーボボに」
彼らに出会ったことが辞めるきっかけ、もとい理由になった。元々深い意味があって毛狩り隊にいたわけでもない。
「いいんだよ。バイトだし」
「いいのか?」
「でもウンコさん強いから、もうちょっといたら正隊員になれって勧誘されてたんじゃねぇのかなー」
「ずいぶん簡単なんだな」
「強けりゃな。あと、死にものぐるいになれるなら」
死にものぐるい。
聞き慣れた言葉ではないが、心当たりはある。
「…お前も?」
「んー、まぁな」
天の助がどんな敵だったかを仲間達は語らないが、時に彼自ら口に出す過去の話は大体悲惨なものだ。毛狩り隊にいる時、死にものぐるいだったと言われても納得はできる。
「他に行くとこないから、ヤケクソでなんでもするだろ?」
「何でもしたのか?」
「死ぬ気で隊長になったよ!ほめてほめて」
妙な要求をしてくる天の助だが、ソフトンが乗ってこないことが解るとすぐに調子を戻す。
こうして見ると、彼は一人でいる時は妙に消極的だ。
「もークビだけどな。負けたからクビ」
「ボーボボにか」
「ボーボボと首領パッチっつーかボボパッチっつーか…でもいーんだ、買ってもらったしね」
確かに、それが彼の本来の夢というか望みだったのだろう。
「それに、行くとこないで隊長やってんのってヤバいぞ。心臓に悪い」
「心臓…」
彼の心臓とはどの箇所を言うのだろう。何か外れたことを考えながら、ソフトンは頷いた。
心臓に悪い、というその言葉の意味するところは解る。
いつ居場所を失くすかも解らぬ恐怖は本来以上の力を発揮させるかも知れないが、同時に神経をすり減らせていくというのだろう。
「いいこともあったけどな」
「いい事?」
「隊長やってんの、楽しかったからさ」
「…そうか」
そうして天の助は、幾らか小さな声で付け加えた。「…だから、決着もつけなきゃなんないんだ」
「…決着?」
「俺、裏切り者だから」
一冊の本を抱く彼の腕に、やや力が篭ったのが解る。
「田楽マンみたいにヒドイことされたんでもないし、魚雷先生みたいに人格変わるんでもないし、ソフトンみたいにバイトとかじゃなくて隊長だったし」
「だから、どっかで決着つけなきゃならない日が来ると思う」
「…Aブロックの連中相手にか?」
「…なんつーかな、誰が相手っていうか…ああでも、たぶん」
誰を裏切ったのかといえば何よりも己の部下を裏切ったのだ、と天の助は呟いた。
「ソフトンは、すげぇよな」
「俺が何だ」
「ボーボボと戦うだろ、ビュティのこと守るだろ、ヘッポコ丸に尊敬されてるだろ。あと、色々」
「…それは」
己は、そうも上に見られる存在ではない。
偽りを抱いてここに在る。
だがソフトンは、その口からそれを語ることをしなかった。
「俺なんか自分のことでいっぱいいっぱいだもんねー」
「そういうものだろう」
そういうものだろうか。
己、ソフトン自身こそ、自分のことを放り出して半ば凍らせたままでいるのではないか。
「でもやっぱ、その時がくるまで忘れちゃいけないことってあるんだよな」
「……ああ」
その通りだ。
彼のそれと己のそれは異なるか、重なるか。
ソフトンの求めているものは決着ではない。
静かなる幕閉じ、もしくは終焉だ。
しかし。
「…実はさあ、これ、本じゃないんだ」
「…?」
「日記帳なんだ。あー、最初は日記だったんだけど、ポエム集にしてあと落書き帳にしてそっから」
「忙しいな」
「…買ったの、Aブロックで隊長やってたころだった」
「……」
「恥ずかしいことばっか書いてあるけど、色んなもんがつまってるから捨てられないんだ。決着がつくまでは絶対持っとくんだ」その言葉に、普段は力の抜けた彼の奥底にある頑なな何かを感じた。
壊れ地に伏すのを恐れる必要のなくなったことが、
彼に強さを与えているのだろうか。「…あのさー、ソフトン」
「…ああ」
「ありがとな」
「聞いてもらったから、なんか楽になった」
「…そうか」
彼は。
彼はAブロックにいた者達を敵とするであろうボーボボやビュティ、首領パッチやヘッポコ丸にはそれを語らないのだろう。
未だ関わりの浅い破天荒や、かつて同じ様な立場にあった田楽マン、関わりのないとは言えない魚雷ガールにも。語らないのだろう。
「…なぁ、戻るか?」
ボーボボ達のいる方角を示して、天の助が問うた。
そこは彼にとって帰る場所なのだろう。
そして彼はその先に、
声には出さぬ何かを見ている。生きていく道の中に、外すことのならない何か。
「…ああ」
俺は、と。
喉から出かけた己の声を抑えこんで、それだけ返した。
天の助は既に立ち上がって、ソフトンのジャンパーをはやくはやく、とふざけながら引っ張っている。
語らぬことは苦痛ではない。
そして語らない必要があるから、語らないことを選ぶのだ。
だが、その声で。
強いのか弱いのか解らない、どんな状況であろうと唐突に絡んできて己の側に響くその声で。
お前の歩む道はそれでいいと、その言葉を強く聞きたいと思った。
望むことをしそびれたのに、諦めもせずそれは頭の中に残ったままでいる。
彼はもう既に、普段通りの笑い声を取り戻していた。