そろそろ日が落ちるかという頃の人気のない街中、幼い少女が母親に手を引かれていた。
少女はいっぱいに息を吸っては、気に入りだろうか、歌を繰り返していた。
迷子の子猫の歌だった。家を聞かれても名を聞かれても、泣き続けてばかりで答えることができない。
だから、何も解らない。
大きな手は小さな手を離さぬように、小さな手は大きな手から離れぬように、しっかりと繋いで進んでいく。
強い風が吹いた。
少女の結んだ髪と、母親の腕にかかった鞄が揺れた。
そして、それを見ている一人の男のマフラーも揺れた。
解らなくなるのは、彷徨い見失いかけてしまうのは、与えられた名や記憶ばかりではない。
まだ薄暗いともいえない街は、しかし既に所々に長い影を伸ばしている。
破天荒は空から降る橙の光に目を細めながら、宿へと向かって足を進めていた。
もっと鮮やかな橙を知っている。
目の眩むほどの、強く暖かい光を知っている。
それは太陽の様に空にあるわけではない。しかし、空より遠いのかもしれない。
己が彼をどれだけ知っているだろう。
知れるものならば、何でも知りたい。この瞳に映していたい。
彼が自分をどれだけ知っているだろう。
考えてみれば話したのは名前ぐらいで、他を必要とはしない。
求めてこないのは必要としないからだ。
こちらが自ら話そうとしないからだ。
名前だけを問われた。お前はどこのもんだ、と。
破天荒。
名乗ると、彼はそれを繰り返した。
破天荒。
その声でそう呼んでくれるようになった。その他の何も語らず、求めず、必要ではなく、通じない。
この旅の中で薄々と再確認されていく、彼には語ったことのない己の過去。
話すための口が開かない。
彼もまた、問わない。
だが己の口は、彼の名を呼ぶことを忘れない。
彼もまたそれを受け止めてくれる。
破天荒。
名前を、呼んでくれる。
暖かい光。
それなのに何故、こんな気分になるのだろう。
まよい子の思い。
幼い頃には感じることのなかった、寂しさや不安が胸を這う思い。
この足を常に進めなくば何時か届かなくなるのではないか。
こうした現状を選んでいるのは自分自身であるというのに、それは消えずにこの胸にある。
また、強い風が吹いた。
破天荒は目を閉じようとした。が、その目が半端なところで閉じられずに止まる。
間の抜けた、聞き覚えのある声が響いたのだ。
「あああ、待ってくれぬのハンカチぃー!」
そんな言葉はある男の口を除いて、どこからも聞いたことがない。
「…なにやってんだ、ところてん野郎」
「あ。デコッパチ、俺のぬのハンカチ見てねえか!」
「見てねえよ。お前、宿にいたんじゃなかったのか?」
「開いてた窓から飛んでっちゃったんだよー!」
「…嫌われてんじゃないか、お前」
「なんだとコラ!」
この風が強いのに窓など開けていたのか、そんなことなどは問わない。どうせふざけていたのだろう。
それにしてもこんな場所まで逃げられて、こんな場所まで追いかけてくるとは諦めの悪い奴だと破天荒は溜息を吐いた。
ところ天の助。首領パッチの一行(破天荒の中ではそういうことになっている)に合流した時、知らぬ内に増えていた中のひとりだ。
大して強いとは思えないが見ているとそう弱くもない。
どこまでふざけていてどこまで素でやっているのかが解らない。
「うう、ぬのハンカチ…」
「諦めたらどうだ。他にもあるんだろ」
「バカヤロー、一枚たりともどうでもいいなんて諦められるか!」
「……」
「俺は追うぞ!」
天の助は、ぬ、という平仮名の一文字をおかしいほどに信じきっている。
何をそんなに気に入っているのかは知らないが、『ところてん促進』とやらに比べれば他へ押し付けてくることもない。
ただ時折、ヘッポコ丸にさりげなくハンカチを差し出してはその辺りに放られているのを見る。天の助本人には気を遣ってもハンカチの方は気に入らないようだ。天の助は本当にどこまでも追いかけて行くつもりらしかった。
どこまでも。
ハンカチの消えた場所を探して、どこまでも。
「……」
急に天の助の背中が小さくなった気がした。
彼はまだハンカチの行ってしまった場所を定めようと辺りを見回して、そこから足を動かしてはいないのに。「…うう、もうさっぱり見えねー」
「……てやる」
「チキショーどこだぬのハンカ……なんだよ、デコッパチ」
「…俺も探してやるって言ってるんだ」
その言葉に天の助はきょとんと破天荒を見たが、すぐに大袈裟に飛び上がった。
「マジで!?デコッパチやさし−!」
「その呼び方、やめろ」
「いーじゃん、よっしゃ探そうぜ!見付けた君には一枚プレゼントだ!」
「いらねえよ」
人にくれてやろうというのなら何故探すのだろうか。
否、そんな問題ではないのだろう。
きっと、彼の中では。「いらねえから、とっとと探すぞ」
おう、と気の入った声をあげて、天の助は頷いた。まるで秘密の探検でも始める子供か何かの様だった。
「ない、ない、ねえなぁー…」
「……」
「なー、あった?」
「ねえよ。見付けたら言うから黙って探してろ」
辺りは既に薄暗くなっていた。
風に乗って飛んで行ったのだから見付かるとしたら風の吹いた方だろうと、そちらに向かえばそこは広い空き地になっていた。
空き地とはいっても廃材やがらくたが転がり、辺りに民家もないために不気味なことになっている。
ぬのハンカチとやらがそこに逃げ込んだかどうか、一目で確認することはできなかった。「…うぅ、ぬのハンカチ〜」
「泣くな」何故彼のためにこうして手を動かしてやっているのか、解り易い答は己自身にも出せなかった。
だが、適当に見放して帰ってやろうという気にもならない。
こうも人の好い真似をしたことがあったろうか。
ただぬのハンカチ、と情けない声を出しながらきょろきょろと辺りを見回す彼を見て、勝手に喉から手伝ってやると出てきたのだ。
「…おい、ところてん」
「なに、あった!?」
「違う」
「なんだよー」
本気で残念そうな声をあげる天の助に、破天荒は手を止めぬまま続けた。
「お前、なんでそうまでぬのハンカチなんてモンにこだわるんだ」
「なんで?…ぬだから」
「なんだそりゃ。理解できねぇな」
「デコッパチが理解しなくったって、ぬはスゲェんだぞ」
あまりにも自信ありげな響きに、思わず眉を顰める。
「…凄い?」
「凄いったら凄いんだ。いつかお前も驚くぞ」
それは言い訳でも誤魔化しでもない、おそらく本心からの言葉。
楽しそうですらある。文句をつける気はないが、どうしてそうまで。
(…何かを信じる)
そこには理屈などない。
知っている。
そうだ、知っている。
彼の目にはそれが輝いて見えるのだ。
違うものかもしれないし、同じなのかもしれないが。
盲目的な信頼。
(…一緒なわけ、ねぇな)
あの人には、首領パッチには確かな輝きや強さや他の何かがある。
『ぬのハンカチ』にそれがあるとは思えない。
それとも、一度本当にぬのハンカチに命を救われでもしたのだろうか。「とにかくすげぇの。すげぇから、絶対見付かる」
「納得できねえ自信だな」
「見付かるもん!」自分には。
信じることはできても、こうも強く追い求めることはできない。
自分から何かを隠しているというのに、不安は湧いて出る。
解らなくなること、彷徨うこと、見失うことを恐れながら追いかける。「探さねえと、見付からねーままだからな。絶対みっかるまで探すんだ」
「……」
「デコッパチはもう戻れよ。暗いし」
「お前、まだ探す気か?」
「ああ」
「……手伝うって言い出したのは俺だ。最後まで付き合ってやる」彼のその心を真似できるとは思えない。
今、近くで行動を共にしている人間の中にそう在れる者がいるか。
ああ。
いる。
ひとりだけ。
あのひとが。
(…似てる?)
まさか。全く、似てはいない。
首領パッチと比べれば天の助は本物の駄々をこねて、失敗を重ねて、決して頑丈ではない。
あのひととは確実に違うのに、
他の誰かと同じようにしようとも思えない。
こうして廃材を漁るのに手を貸している。「ハンカチっていいぞー」
「どこが?」
「拭けるし、包めるし、押さえられるし、守ってくれるし」
「…守る?何をだ」
「色んなことだ」(…色んなことか)
そのハンカチで大きな事ができるのだと、何度失敗しても言い張り続けている。
転ぼうとも気付けば立っている、透き徹ったもの。
逸らされることなくこちらに向けられる確かな視線。
薄く開いた視界に、布の切れ端が見えた。
「…あ…った」
「へ?…マジで、みせてみせて!」
天の助が駆け寄ってきて、破天荒の引きずり出したそれを覗き込んだ。
埃や土で汚れてしまっているが間違いはない。
「わー!ホントだ見付かったじゃねーか、でかしたデコッパチ!」
「……」
「よし、そんな君にはぬのハンカ」
「…いるか」
「チッ」
天の助にハンカチを渡してやりながら、ぼんやりと呟く。
お伽噺のような奇跡だ。
だが天の助のいた場所を見ると、破天荒がした分の何倍も掘り起こされては少しずらして積み直されている。
その柔らかすぎるであろう手を何度傷付けたか。そして何度、平然と元に戻したのか。
降って湧いてはこない結果を、それでも必要だからと掴むために。
自らの体を引きずりながらここまで生きてきたのだろうか。
「ありがと−な、デコッパチ」
「…別に何もしてない」
「でも、見付けてくれたのお前だぜ」
「…ああ。そうかもな」
空を見上げれば既に月が見えていた。
暫くはただ、それを見上げていた。
「…おーい、デコッパチ」
「…ああ」
「行こうぜ、もう真っ暗だし。真っ暗こわいし」
「嘘つけ」
何度か共に野宿しているが、そんな様子を見せたことはない。
「嘘じゃねーよ。怖い時は怖いもん」
「ガキじゃあるまいし」
「ガキじゃなくても怖いんだ」
やれやれ、と溜息をついてみせると天の助はむっとしたようだった。
「ハイハイ、解った。怖いんだな」
「なんだその態度ー!」
「うるさい」
適当にあしらってやると天の助は沈黙した。
そして、ひょいと手を伸ばす。
「デコッパチー」
「なんだよ」
「手ぇつないで」「……」
「……」
「…なんだそりゃ?」「怖いから」
やっぱダメ、と問うてくる天の助に、破天荒は己の手を見た。
随分土に汚れている。宿に戻れば洗えるだろうが、今は他のものを触る気にもならない。だがよく考えれば天の助も先程まで同じことをしていたのだ。
そして、何故か。
別に繋いでやってもいいだろうと、己の心が告げる。
「しょうがねぇ奴だな」
「わーい、やったー」
「…ホントにな」
天の助の差し出した腕の先を握ると、つるりとした感触。土や砂は滑り落ちてしまったのだろう。
「…手、ごわついてんだろう」
「え?デコッパチのか?」
「ああ」
「別にぃ。あったかいぞ」
ふにゃりと力の抜けた声で、一言。
破天荒は思わず目を見開いた。
「あ、あったかい…?」
「人間の手ってさ、あったかいよなぁ。俺、好きなんだ」
「…そうかよ」
確かに、破天荒からすると逆にひんやりと冷たい。
作業したばかりの手で幾らか熱を残しているからかも知れないが、天の助は熱いとは言わなかった。
「お前は手ぇ繋ぐの嫌いなのか?」
「そんなにするような事じゃないだろ」
「首領パッチとは繋がねぇの?」
「…おやびんは」
首領パッチには。
手を伸ばさない。
あのひとは、手を繋いでほしいと求めない。
「…俺と手なんて、繋ぎたくないだろ」
「なんだ、振られたのかー?」
「違う。おやびんはお前と違って甘えん坊じゃねえんだ」
「甘えん坊じゃなきゃ繋がないのかよ。フツーに繋いでくれんじゃねえの」「…まさか」
「だって、おやびんなんだろ?」
「…なんだ、お前……単純だな」
「悪かったなぁ。じゃ、行こうぜ…手え離しちゃヤだからね!」
単純な男。
目の前しか見ていない、求めるものしか見ない。
目の前の、求めるものを正面から見ることのできる。
彷徨う事を恐れずに、見失うことを考えない。
「…なあ」
「んー?」
「おやびんは、俺の帰りを待っていてくれると思うか」解らなければ真っ正面から考える馬鹿野郎。
違う、馬鹿は己だ。
何を問うているのか。「俺じゃなくて首領パッチに聞けよ」
「ああ。そうだな…」
「でも、お前と暫く離れてたってちゃんと覚えてたんだろ。待ってないのとは違うと思うぜ」手を繋いだまま上目遣いに、彼は答えた。
「…そう、か」
「うん。だから帰った時は、ただいまって言うじゃん」
ほんの少しだけ離れた時。宿屋に、キャンプに、休んでいる場所に戻って来た時。
あのひとは確か笑顔だったろうか。
「だから帰ろうぜ。腹へったしさ」
そしてあのひとと共にはしゃぎながら、このところてんも一緒になって。
おかえりと、何の戸惑いもなく真っ直ぐにこちらを見て。
迎えてくれる。
「んじゃ、行くぞ。破天荒!」
「…ああ!」
解るか解らないか、それが決まるのは、
本当は手を伸ばしてからだ。
騒がしい声が呼ぶ破天荒の名とそれに応えた一言の響きが終わらぬ内に、
手を繋いだまま、二人はほぼ同時に足を踏み出した。