時が巡ってかつて自分の生まれた日へと廻ることを、そうも感慨深く思ったことはなかった。
誰にも平等に訪れる。今日が誰かならば明日は別の誰かがその日を迎え、誰も生まれなかった日というのは恐らく無いのだろう。
時は世に数少なく、人々の中を平等に巡る。
そしていずれは朽ちていくということ。それだけだ。
だから『それまで』は、その日を待つことなどありはしなかった。
同じ世界の上を
それは何時だっただろうか、何か催しのあった時のことだったかも知れないし、なんでもない日々の内にあったかも知れない。
彼がカツにのんびりと問いかけてきたのは、生まれ日のことだった。
時が止まらねば定められた日も進む。生きていれば誰もが迎えるその日のことを、誕生日と騒いでは喜び祝う者もある。
カツにとってあまり縁のある話ではなかった。
ずっと幼い頃には祝ったこともあったかもしれないが、それこそ時が巡り佇んでいる今にはその影はない。
「だからさ、お前の誕生日っていつだっけ?」
一言目には、そういえばお前の誕生日っていつだっけ、と問うた。
二言目とて変わらない。聞き逃したのかと思われたのか、余程それを知りたいのだろうか。「…そんなもの聞いて、どうするんです?」
「星座占い」
「……星座?」
「の、ついでに聞いとこうと思ってさ」
「はぁ」一応直属の上司である彼は、時折どころか度々突拍子もないことを言い出す。聞きたがりで、聞いて得たもので一頻り遊んでは仕舞いこんで笑っている。
カツにはどうもその行為がすんなりとは解らなかった。
子供のすることと思えば流してしまえるが、彼、ところ天の助はまず子供ではない。子供だと言われたらそうなのかと頷けるが、本人が申告するには三十年ほどは生きているらしい。
確かにそれらしい表情も、見せはする。「……三月の……十九、だったと思いますが」
「うろ覚えだなぁ。自分のことだってのに」
「あんまり考えることもないんで」
「そうなの?えーと…あー、ギリギリで魚座だってよ。三月の二十日まで」
「…魚座、ですか」
「んーと誕生石はアクアマリンとサンゴで、今週の運勢は……まあまあだってさ」
「…まあまあ、ですか」
「ハンカチを右ポケットに入れとくと上昇するらしいぞ。ぬのハンカチあげるから元気出せよな」
「ハンカチはいいです」
「なんでそこだけ即答なんだよ!?」
そして天の助は、決して弱くはない。
それでも思考回路は幼いと、カツにはそう思えた。
雑誌の占いを信じたことはない。実際に当たっているのかも知れないが、明日の運命を想うことなどそうはなかった。
一喜一憂する様子は無邪気なものだ。
ぶつくさ言いながら天の助は、再び雑誌に目を戻していた。
自分の方の運勢を調べたのだろう。げ、だとかなんで、だとか、悲しげな声を聞いた記憶がある。ろくな運勢ではなかったのか、しかしその後の彼を目立つような不幸が襲った記憶はない。
強いていえば彼はいつも何かしら不幸だった。
不幸というか、気付けば何か危なっかしいことに遭遇していた。
大抵は自分で何とかしていた様だが、時にいじけて泣きついてくることもあった。
だからうかうかと目を離せなかった。
だから、こんなにも彼の記憶を残したままでいる。
その話はそれで終いではない。
カツはそんなささやかなやり取りのことなど、数日も過ぎれば忘れてしまっていた。
思い出す機会もなかった。だから忘れたまま、月日は巡っていった。
それを思い出したのはずっと後の、
冬の気配が立ち去り寒風を忘れかける頃のことだった。
「カツ!カツーいるかー!」
私室、正確には『マルハーゲ帝国毛狩り隊』『Aブロック所属』『現副隊長』として与えられた部屋の戸が、ばしばしと叩かれる音。そして声。
声でも音でもその主が解る。
彼でなければ自分を呼び捨てにはしないし、音もヒューマンタイプではない彼特有のものだ。
インターホンなり何なり使った方が早いだろうに。
「はい」
彼、こと天の助に聞こえるように応えてから、読みかけた雑誌を放って立ち上がる。
ドアを開くのにそう時間はかからない。
「何かありましたか?隊長」
「へへ」
緊急の事態などというわけではないだろう。何せ彼は笑っている。
悪戯を仕掛けた子供の、無邪気に結果を期待する笑顔だ。
カツは困惑した。
「…なんですか」
彼のそうした笑顔は得手ではない。
必ずと言っていいほど予想外の状況が待ち受けている。何が起こるか解らない。
「あのなぁ」
もったいぶりながら、天の助は後ろにまわしていた腕をさっと突き出してきた。ぷるん、とくぐもった音がする。
「お前の誕生日、祝いに来たぞー!」
「………」
「…」
そしてリアクションを待っていた様だが、カツの方は沈黙させられたままだ。
「…はい?」
「あー、やっぱり忘れてた。ずっと前教えてくれたじゃん?お前三月の、十九日が誕生日だって」
「言った……かもしれませんが」
「だから、ホラ」
前に突き出した腕を上に、カツに見えるように上げてくる。
透明の両手の上には透明の袋がリボンに飾られて乗っていた。
「クッキー、ですか?」
「ぬのクッキーでーす」
どうやって型抜きしたのか、確かに天の助気に入りの『ぬ』の形をしたクッキーが袋の中に詰まっている。
微かに甘い匂いもした。焼き上がったばかりなのかもしれない。
「おめでとー」
「…どうも」
天の助はクッキーを片手にぴょいんと飛び上がって、こちらの肩をぽんぽんと叩いてくる。
続けて軽く首を傾げた。
「お邪魔していいー?」
「……まあ、どうぞ」
未だ飲み込めないことばかりではあったが、断る理由もなかった。
席を勧めてから紅茶を煎れる。
彼がコーヒーの方を好むことは知っていたが、生憎切らしたばかりだ。後で補充しようと思っていたところだった。
「すみません。コーヒー、きらしてるので」
「いやぁ別に…」
言いかけたところで、天の助ははっと目を見開いた。
「って俺がお茶用意してもらってちゃ意味ないがな!」
「え?」
「お前の誕生日なのに!」
「あぁ」
「ゴメン…」
クッキーの袋はテーブルに置いて、しゅんとなってしまった隊長にカツはふぅと息をつく。
「いいですよ、ここは俺の部屋なんだから」
「うぅ…クッキー食べてくれる?」
「…頂きます」
断るわけにもいかない。一応上下関係というものもあるが、彼の彼なりの行為を拒否する気になれなかったのだ。
何故だか、彼にはそうさせるところがある。
ひとつ摘んだクッキーは香ばしく甘過ぎなかった。
甘いものを得手としないカツの趣向までしっかりと覚えていたらしい。
「いける?」
「…あ、はい」
「マジで?」
「はい。隊長、こういうの得意なんですか?」
クッキーはどれも綺麗な形をしていた。焼き損ねも無い様で、歯触りも良い。
「けっこー器用だろ!どうよ俺の『ぬ』のクッキー」
ただし形は奇妙だが。
彼がなぜ平仮名一文字をそこまで崇めるのか、隊員の中にそれを知るものはなかった。ただ、カツは彼のその思いそのものならば何となく理解をしている。
彼は打ち込むことが好きだ。
信じることも好きだ。
隊長という立場にはらしからぬ細かい作業を、暢気な鼻歌とともに片付けていくのが好きだ。
何かを達成するとそれは幸せそうな顔をする。
今もそうだ。(…俺が)
美味いかという問いに、頷いたからだろうか。
思いながら無糖の紅茶を口に含む。砂糖もミルクも必要としないのは天の助とカツの共通するところで、しかし天の助はカツの好みよりも幾らか濃く煎れたコーヒーを好んでいた。
「…隊長」
「ん?」
「隊長は召し上がらないんですか?」
袋いっぱいのクッキー。
皿にもあけずにいるのは色気が無いが、それ以前に一人でただ食べているのもどうだろうか。
「俺がお前に作ったもん、俺が食ってどうすんだよー」
その理屈も確かではあるが。
「…なんだって、急にこんなこと?」
「誕生日なんてさ、滅多に考えることなかったじゃん」
テーブルに軽く肘をつき、上目遣いをして返してくる。
「だからお前の誕生日聞いた時にさ、覚えとこうって思ったんだよな」
「…ずっと?」
「もちろん」
即答した天の助はそれは自信に満ちていた。
実際、当人も忘れていたのに覚えているのだから大したものだ。
「あ、でもちょっと待てよ。Aブロック全員の誕生日覚えるとなると……あーえー、ちょ…自信ねぇー」
と、思えば慌てだす。
わたわたと悩み始めた天の助に、カツは少しだけ吹き出した。
「…あ、笑いやがったな!」
「可笑しいからですよ」
「可笑しかねー!こりゃかなりの強敵だぞ」
「…そんな」
無理に覚えなくたっていいじゃないですか。
言いかけて、カツは反射的に口を閉じた。
悩む天の助を前にしてそのまま押し黙る。
その後に続けるべき代案を出したくなくなったのだ。
カレンダーでも作っておけばどうですか。
月に一度まとめて祝ったらどうですか。どちらもささやかにやるのならば現実的な話だが、もしそれが行われるとしたら、
今日という日は『特別』ではなくなる。
否、今日一日が特別として扱われたとしても次は無いかも知れない。
(…なんで、俺はそんなことを)
考えて黙るというのか。
一年後。
誰にも平等に時が巡るように、カツにも生きてさえいれば一年後の三月十九日が訪れるだろう。
その日、自分はいったい何をしているだろうか。
その日、彼はいったい何をしているだろうか。
いったいどんな日として己の前に現れるというのか。
「…ま、いいや。後でじっくり考えましょ」
「…考えるんですか」
「おうよ。俺は考えるところてんになるぜ」
男前ぶって見せる天の助。
「砕けちまったら骨は拾ってくれよな…」
「隊長、骨ないじゃないですか」
「あらやだ!」
もう既に、気付けば幾つ目かのクッキーを口に運ぶ部下を見ながら、天の助は大袈裟に驚愕した。
「隊長にも、あるんですか?誕生日って」
「誕生日じゃねぇなー。製造年月日な」
「……あぁ」
「ま、俺はところてんだからな。でも人間の誕生日を祝ったっていいだろ?」
「いい…んじゃないでしょうか」
「だよな」
「生まれてくれたことを感謝する日、だとか言いますね」
「あ、そうなの?」
「…確かよくそう聞きますが」
「へー。来年の今日もまた一緒にいられるといいなー、って約束する日だと思ってた」「……初耳でした」
「やっぱ違うの?」
「いえ。間違いとかじゃなくて…いい、と思いますよ。それはそれで」カツの言葉に、天の助は思案顔をぱあっと輝かせた。
「だよなー!じゃ、約束しよーぜ!」
「え?」
「来年も一緒に。嫌か?」
「いいえ、嫌では……そういうのに慣れないだけです」
「じゃ、俺が記念すべき一人目ってヤツか」
「そうなりますね」
「わーいわーい」
紅茶のカップを置きながら、視線は彼を追う。
くるくると変わりながら彼は笑っていた。
約束をしようと言って、そして笑っていてくれた。
約束を。
二人の生きる時がまた一年まわった日、間違いなくこうして向かい合っていようと、
そう望む約束を。
当然の様に訪れるちょうど一年先のことを、瞬間的にでも想ったのは初めてだったかも知れない。
人の定めた年がひとつまわる日。ある者は祝い、ある者は嘆く日。
カツはそれを待とうと思った。
彼が生きているのなら、
彼がここに在るのなら、
彼が笑って祝福してくれるのなら、
待つのも決して悪くはないと。
そのひと時だけでもそう感じていた。
そうしてそのまま仕舞いこんで、その日が訪れれば取り出すのだ。
彼と自分とは幾度まで、その約束を果たし続けただろうか?
next